「わたしが保護したので」ヨハネによる福音書17章1-13節

「わたしが保護したので」ヨハネによる福音書17章1-13節(2018.5.13、母の日礼拝)

 

今日は「母の日礼拝」である。この国でも「母の日」は、文化の中にきちんと浸透していて、この日だけは、カーネーションの値段が普段の倍くらいに跳ね上がる。わが子、主イエスの十字架のみもとに、母マリアは佇み(スタバト・マーテル)、その瞳から流れ出た涙から、白いカーネーションが咲き出でたと言う。その白いカーネーションは、十字架の血潮によって赤く染まった。そこからカーネーションの花は、十字架と復活を象徴する花となったという言い伝えがある。

母の日の起源は、1907年5月10日に遡る。アメリカで、アンナ・ジャービス女史が、母アンを追悼し記念会を持ち、白い薔薇の花を捧げたことに始まる。彼女の母は牧師夫人で、アン・ジャービス(Ann Maria Reeves Jarvis/1832-1905)は、公衆衛生や社会的弱者のために活動する、ウェスト・ヴァージニア州の社会運動家だった。南北戦争中の負傷兵の治療や、公衆衛生の改善等の活動に積極的に取り組み、戦争後には、分裂した北部と南部の和解のために、「Mother’s Friendship Day(母の友好日)」などの平和活動を続けて行った。アンには2人の娘がいた。娘アンナ(Anna・Jarvis/1864- 1948)も母親の影響を受け、その活動をそばで支えていった。アンナが41歳の時、母アン・ジャービスが亡くなる。その2年後の1907年5月の第2日曜日、アンナは母親を追悼するため、フィラデルフィアの自宅に友人数人を招き、自分の母親の活動を振り返りつつ、母に敬意を表する国民的な日としてマザーズ・デイを設けるべきとの考えを友人らに明らかにした。つまり極めて社会活動・運動の中から始まったムーヴメントが、「母の日」だった。

「母の日」は程なくアメリカで広く受け入れられるようになったが、社会運動的側面が無視され、商業ベース化されるようになる。例えば、この日にカーネーションの値段が、便乗値上げされたり、豪華な「母の日」カードが販売されたりすると、アンナ女史はこれに憤慨し、企業相手に差し止め訴訟を起こしたりするのだが、「母の日」は続けられ、現在の形に定着している次第である。
今日の聖書の個所は。これまで何週かにわたって読んできた、ヨハネ福音書の主イエスの遺言の最後の部分、主イエスの「祈り」が記されている個所である。この祈では、自分がこの世を去った後に、地上に残して行かざるを得ない弟子たちのために、「神に祈る」とりなしの部分が中心である。この部分を読むと、主イエスと弟子たちの関係が、先生と生徒、師と弟子というものを超えて、実の親と子、もっと言えば、母と幼子の関係にも準えて表現されているように思う。
特に11節以下、「引用」、主イエスはこう祈っている「わたしはこの世を去る、どうかわたしがいなくなった後でも、子どもたちが守られるように。そして子どもたちが、散り散りばらばらに絆を失ってしまわないように」。これはまさしく母なる者の祈りである。親は、当然子どもより年齢がずっと上である。人にはそれぞれ定められた生涯の年月があり、自分の生きる年数は、自分では決められない。しかし大抵は、親の方が先に、天国に行くことになる。信仰者ならば、「いづれ天国で、また会いましょう」、なのだが、しかしそこはそれ、やはり後に残す子どものことが気に掛かるのである。

12節「引用」、主イエスは弟子たちを、実の子どものように、彼らを守り、保護してきた。勿論、自分の言うことを聞かない勝手な子もいる。「滅びの子」とは、ユダのことを指しているのであろうが、愚かな子ほどかわいい。ユダとても、主の暖かなみ守り、保護の中に、今もいるのである。しかし別れの時が間もなくやってくる。もう直には何もしてやれなくなる。触れ合うことができなくなる。そうしたらこの子は一体どうなるのだろうか。ちゃんとやっていけるだろうか。けんかして、あるいは世の荒波にもてあそばれて、ばらばらになってしまわないか。心配で心配で、たまらずに祈っている。そういうくどいくらいの祈りのみ言葉が連ねられている。主イエスはまさに母そのものである。
こういう詩がある。「母は/舟の一族だろうか。こころもち傾いているのは/どんな荷物を/積みすぎているせいか。」(吉野弘『漢字喜遊曲』)。母と舟、「荷を運ぶ」という共通の性質をそこに感じると詩人は言う。主イエスも、まさに人々の重荷を運ぶ「母」、あるいは「舟」のような存在である。しかも「心持ち傾いた舟」、主イエスの姿もまた同じように映る。
弟子たちのための、主イエスの祈りは、13節でひと段落する。主イエスが神に願い求めたのは、「喜び」である。「喜びが失われないように」。しかも「主イエスの喜びが、彼らの内に満ちあふれるように」。恐らく親として、母親として、神に願う唯一つの事柄こそ、それであろう。悲しい顔をし続けて、生きて欲しくない。つらさに飲み込まれて、歩んで欲しくない。怒りに飲み込まれて生きて欲しくない。そこに喜びがあれば何とかなる。「主イエスの喜び」とは実に「福音」のことである。福音「喜びの音信」の中で生きていって欲しい。
小さい子は、母の日の贈り物をするにも、お金がないから、「肩たたき券」「おつかい券」を発行する。「無期限に使用できます」。ある高校生がこういうツイットを書いていた。「幼稚園ぐらいでしょうか。母親の誕生日に『なんでもけん』をあげました。洗濯物干してとか茶碗洗っといてとか、パシリ系に使うのかとずっと思っていた『なんでもけん』。でも、バスケ高体連の試合の出発前に渡されました。開催地へ向かう朝、学校まで見送りに来た母からポチ袋を手渡されました。彼は中身を尋ねることなく受け取り、バスに乗り込みました。会場に到着し、開会式前にこっそり中を開くと、10数年前に自分があげた「なんでもけん」が入っていました。そこに書かれていた文字は「最後までしっかり動けますように」。
人が残せる最上のもの、唯一のものは、やはり「祈り」である。「しっかりと動けるように」とは、母の喜び、子の喜びに通じている。私たちの人生の背後に、主イエスのこの祈りがある「わたしの喜びが、彼らの内に満ちあふれるように」。

「故郷の言葉を」 使徒言行録2章1-11節(2018.5.20、ペンテコステ礼拝)

ペンテコステおめでとうございます。ペンテコステで「おめでとう」は違和感が有るか。それなら「最初の教会の誕生日、おめでとう」ではどうか。最初の教会は、聖霊の働きによって形作られた。そこに居合わせた多くの人とって、目の玉が飛び出るようなびっくり仰天の出来事、まさに芽が出る、おめでとうの出来事である。
五旬節の日、主イエスの弟子たちは、「一同がひとつになって集まって」いたという。伝説では「最後の晩餐」を守った部屋に、一同、顔を突き合わせていたそうである。そこに突然出来事が生じた。2~4節「引用」。「聖霊に満たされ、霊が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」。ここに聖霊降臨の出来事の中心がある。イエスの死と復活、そして昇天、一連の時の流れの中で、弟子たちは、何か積極的に事を始めたのでも、活動を開始したのでもなかった。もちろん、仲間内では、主イエスの思い出や、教えられたみ言葉を語り合い、反芻し、その意味を考えあったり議論をしただろう。しかし外に向かっては、彼らは口をつぐみ、何も言わず、沈黙を守り、他の人々の関心を引かないよう、じっと「潜伏」していたのである。主イエスからも、「待ちなさい」と言われてその通りに「待った」のである。信じる者だけが、真実に時を「待つ」ことができる。私たちは少し急ぎすぎる。
つい先ごろ、「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」がユネスコの世界遺産に登録される見通しとなったニュースが伝えられた。マスコミもこぞってこれを記事にしていたが、神戸新聞がこのようなコラムを掲載していた。長崎の潜伏キリシタンが唱えた祈りを「オラショ」という。幕末、外国人神父がそれを聞いて仰天する場面が遠藤周作さんの短編「小さな町にて」にある。祈りの文句は独自の進化をとげたらしい。キリストさま、マリアさま…とここまではよかったのだが、そのあとには「惣平衛さま」や「五郎作さま」と先祖の名が連なって、「竜宮の乙姫」まで出てきたという。

キリシタンの祈り「オラショ」、元々ラテン語の「オラシオ」祈りから来ている。「オラトリオ」(ヘンデル:メサイアが有名、聖譚曲と訳される)もその言葉から派生している。彼らの祈りは、元々「ラテン語」であるが、信仰の導き手」である、パードレ(神父)不在の潜伏中、長い間に、随分、始めとは違うものに変化してしまった。先祖の名前、他の宗教や土着信仰との混交が生じたのである。これをどう見るか。キリスト教信仰のまことを喪失したのか、あるいはとりまく状況の中で、信仰が日常生活に受肉化したのか。
彼らは、捕らえられ、追放され、あるいは殺害されるパードレから、遺言のように、再び「パードレ」が来る日を待て、と告げられた。そして彼らは待った。250年にわたって、自分たちだけで信仰を守り続けた。そして1865年3月17日、潜伏の信徒達が長崎の大浦聖堂を訪れ、そして聖堂内で祈るプチジャン神父に近づき「ワタシノムネ、アナタトオナジ」と囁いた後、「サンタ・マリアの御像はどこ?」と尋ねた。潜伏キリシタンの信徒発見のニュースは、すぐさま世界を駆け巡ったと言う。
沈黙を守って来た人々が、再び語り始める、ということは、確かに大変な出来事である。「沈黙」には、それだけの並々ならぬ事情と背景が有る。4節にはその時の様子が「霊が語らせるままに、他の国々の言葉で話しだした」。「他の国々で」は、意訳である。直訳では「異なる言葉で」。「国」という言葉はここに書かれていないのである。ルカはギリシャ語を母国語として語った人だから、他の福音書のように、たどたどしい書き方はしない。「他の国の言語」ならば、ちゃんとそのように正確に記しただろう。「異なる言葉」ということから、「異言」と理解する人もいる、霊的な高揚や興奮の中で、うわごとのような、言葉にならない、意味不明の言葉を語ること。これを重んじる教派の信仰者もある。「異言」が語れて一人前、時には「異言」を語る練習も有るそうだ。

ところが今日の個所では、その「異なる言葉」は、そこに居合わせた諸国の人々、主イエスとは何の関係もない、ただ通りすがりの人に、どんな反応を引き起こしたのか、が問題である。「異言」ならば理解できなかったろう。しかし彼らは口々に言った。6~7節「引用」。「異なる言葉」、弟子にとっては、それまで主イエスを失った、悲しみ、嘆き、心配、恐れに、心が満たされていた。しかしその心を打ち破り、砕き、壊し、新しい言葉が吹き込まれた、そして語りだしたのである。彼らにとって聖霊の力による「新しい言葉」こそ「異なる言葉」であった。今までとは異なる言葉を、彼らは語りだしたのだ。異なる言葉、とは、どんな言葉だろうか。皆さんはどうお考えか。
その場に居合わせた人々には、それが「故郷の言葉」として聞こえたというのである。皆さんにとって、「故郷の言葉」とはどういったものであろう。嫌な思い出が有るから、故郷の言葉なんか聞きたくない、と言う人もあろう。しかし方言を超えて、何語、どこの国の言葉を超えて、今も心に残る「故郷の言葉」と言うものが、人には有るのではないか。それが祖父母の言葉であれ、父母であれ、兄弟、幼馴染、友人が語ってくれた懐かしい言葉、私がそれに返事したあの言葉、今も心に残る、あの時の言葉、それこそ「故郷の言葉」であり、他の呼び方をするなら、それは魂からの言葉、真の「愛」のこもった言葉なのではないか。ペンテコステの日に、弟子たちはまことの愛の言葉を語り、居合わせた人々は、まことの愛の言葉を聞いた。「故郷の言葉」とは、主イエスの福音、喜びの知らせ、主イエスの愛そのものを語る言葉であった。それが皆の心に届いた。今も私たちの心に届いている。最初に紹介した新聞コラムはこう続く。激しい弾圧と迫害を耐え忍び、およそ250年にわたってひそかに守りぬいた信仰を彼らはフランス人神父に打ち明けた。この1865年の「信徒発見」は世界の宗教史上、類をみない奇跡として語り継がれる。その舞台となった「大浦天主堂」をはじめとする教会や集落などが、長崎と天草地方の潜伏キリシタンにまつわる場としてユネスコの世界文化遺産に名を連ねる運びとなった。この夏には、正式に決まるという。信仰とは何かを伝える遺構群でもあろう。禁教下、本心を明かせず息をひそめて生きた人たちにとっては、たとえ奇妙な名が交じっていたとしても、救いを求めて唱えたオラショこそ魂の祈りだったに違いない。世界遺産となることで知られざる歴史に光があたったらいい。いまごろは惣平衛さまに五郎作さま、乙姫さまも目を細めておいでだろう。

聖霊は、今も、教会の言葉、私たちの言葉を、新しくしてくれる。私たちのつたない言葉を、魂の祈りに、愛のみ言葉に、作り上げてくれる。そこに教会は立てられるのである。人間の思いや働きを超えて、神の力は働かれる。ペンテコステはその証であるし、私たちの教会が、今、ここにあるのも、聖霊の息吹の発露であろう。