「恐れの霊ではなく」ローマの信徒への手紙8章12~17節

「恐れの霊ではなく」ローマの信徒への手紙8章12~17節(2018.5.27)

 

そろそろ入梅しそうな気配である。皆さんは「しとしとと降る雨」を「うっとうしい」と感じるか、それとも「落ち着く」と感じるか。雨一つとっても、それぞれの感慨であるが、梅雨に雨が降らなければ、水不足で困り、多すぎれば災害で、やはり困ることになる。やはり水は命と直結している。「いのちの水」である。
先週の「折々の言葉」に、「いのちの水」という寓話の一節が取り上げられていた。カナダの牧師、トム・ハーパー氏の手になるものである。少し紹介しよう。

むかしあるところに、岩だらけの広い荒野があった。茨を除けば、地には何も生えていなかった。この荒野に一本の長い道があった。巡礼者が通る道だった。巡礼の途上、人々は足の痛みとのどの渇きに苦しみ、疲れ果て、不安と恐怖におびえた。荒野に、岩から水が湧き出ている場所があった。誰がこの泉を発見したのか知られていない。何世代も前から、旅人たちは決まってその湧き水で立ちどまり、その水を飲んで力を取り戻した。彼らはただ単にのどの渇きが潤されるだけでなく、より深い欠乏感がみたされることを体感して驚き、喜んだ。すなわち、その水を飲むと体も心もいやされ、希望と勇気が再び強められたのだ。人々は生きることに新鮮な意味と豊かさを発見した。それぞれの重荷をふたたび担い、新たな思いで歩きだすことができるようになった。巡礼者たちはこの泉を「生ける水が溢れる場所」と名づけ、この水を「いのちの水」と呼んだ。

今でも健康で文化的な生活のために、新鮮で安全な水は、欠かすことができない必要条件である。ユニセフでは、そういう良い水の確保が、「一日ひとりあたり20リットル必要」であり、その水が「2キロ以内の距離で手に入る」ことを規定している。なぜ2キロ以内かと言えば、水は非常に重く、運ぶのが重労働だからである。しかし「ただ単にのどの渇きが潤されるだけでなく、より深い欠乏感が満たされることを体感して驚き、喜んだ。すなわち、その水を飲むと体も心もいやされ、希望と勇気が再び強められた」ということに、まさに「命の水、現代人の一番の希求が示されているだろう。

しかし話はここからが本題である。時を経て、様々な人々がこの泉に感謝を表すため、石を持ち寄って積み重ね、記念碑を建てるようになった。それからさらに何百年かの時を経て、記念碑はだんだん大袈裟になり・・・ついには泉の上に要塞のような大聖堂が建てられ、周囲は高い壁で完全に囲まれてしまった。そして泉の純粋さを守るために、特別な祭服をまとい、仲間内でしか通用しない特別なことばを話す、特別な階級の人たちが、さまざまな規則を定めた。これによって水を飲める人が限定され、今までのように誰もが自由に近づくことは出来なくなった。その水を誰が飲めるのか、いつ飲めるのか、どうやって飲めるかについて、意見の相違が生じ、そのために激しい争いに至ることもしばしばあった。

最初は感謝のしるしとして積まれた小石が、記念碑となり、その上を覆う大聖堂となり、人間が締め出される。誰が飲めるか飲めないか、どんな方法で、と激しい議論がなされ、飢え渇いて、最も「命の水」を必要とする人から、その水は、取り上げられてしまった。まさにこの寓話は、人間の歴史の営みのカリカチュアである。今、ますます人は、そういう「命の水」を、これまで以上に欲し、捜し求めているのではないか。そういう「命の水」は、現代にはもうないのか、それともどこかにあるのだろうか。

今日は使徒パウロの記したローマの信徒への手紙からお話しする。パウロの手紙の中でも、最後に記されたもののひとつである。まだ訪れたことのない、知る人もいないローマ、しかし当時の世界のメガロポリスにある教会へと差し出された手紙である。現代でもそうだが、誰も知る人がいない所で、受け入れてもらうには、誰が有力者、有名人の「推薦状」なり「紹介状」を持って行き、信用してもらう、というのが常識であった。ところがパウロはそうしなかった。自分で自分の紹介状をしたためた。それがこのローマ書である。だからいささか気合が入っている。
この個所の中心は15節である「引用」。まず私たちは、「神の子とされる霊を受けた」と言われる。聖霊を受けるとは、「神の子」とされるのである。主イエスがヨルダン川でバプテスマを受けられた時、聖霊が鳩のように降り、「あなたはわたしの愛する子、わたしのこころにかなうもの(喜び)」というみ声があったという。ただそれは主イエスにだけ語られたみ言葉ではないのである。わたしたちもバプテスマを受ける時、主イエスと共に、同じみ声を聞くのである。「神の子」とされるというのは、何も特別な、人間離れした超人になるのではない。あるいは完璧な人になる、のではない。主が聞いたのと同じ言葉を、神から聞くことができるようになるということである。「あなたはわたしの愛する子、わたしの喜び」、ありのままのわたしを、愛する子、喜びだと言ってくださるのである。これを今、聞くことができているか。

それでも、思うかもしれない。神の子などという恐れ多いことは、私にはふさわしくない。こんないいかげんで、ぐうたらで、何もできない人間を、「神の子」だとは。しかし、逆にそうだからこそ希望がある。主イエスにあっては、いいかげんでぐうたらな人間こそが、神の子とされるのである。主が語られたあの放蕩息子の譬を思い起こして欲しい。父は言う「この子は死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに、見出された。喜び祝うのは、当たり前である」。私たちもまた、主イエスにより、死んだようになっていたのに、生き返った。いなくなっていたのに、見出されたのではないか。このみ言葉によって、私たちは、神のみ前に立つことができるのである。
聖霊は「奴隷として恐れに陥らせる霊ではなく」とパウロは言う。聖霊の働きがどのようなものかについて、端的に語られている。おそらく私たちの一番の課題がここにあるだろう。勿論、人間だから怖いものがある。何も怖いものがない、ということほど、怖いものはない。自分を誤解している。自分の力を超えるものは、何ぼでもある。自然の驚異、天変地異、人生の過ぎ越し行く末、まだ見ぬ未来。ところが問題は、恐れに陥ってしまい、がんじがらめになって、まったく動けなくなってしまう。あるいは恐れのあまり堂々巡りしてしまうことなのである。山で遭難し、自分力で何とかしようとして、体力を使い果たしてしまうのと同じことである。
恐れの極まるその時に、私たちは、神の霊によって、「アッバ、父よ」と叫ぶことができる。おそらく、これが私たちにとって、人生の最初から最後まで、変わらず、失われることのない真の力であるだろう。「アッバ」、主イエスが、そのように祈ることを教えられた。神をこれ以上近くに、これ以上親しく、呼びかける言葉は他にないだろう。どんな時も、私たちは、神に、近くに親しく呼びかけることができる。そして私たちが「アッバ」と呼ぶときに、主イエスもまた共に神に呼びかけてくださるのである。

最初に紹介した「いのちの水」の終わりは、こう記される。聖所の中では、「いのちの水」が遠い昔巡礼者たちにもたらした恵みを記念する、麗しい礼拝が行われていた。そのかたわら、壁の外では、人々がのどの渇きで死に瀕していた。旅路を往く人々の圧倒的多数は、今や聖所として整えられた「生ける水が溢れる場所」を避けて、水を飲まずに何とか生き延びるようになった。彼らの多くは神殿のかたわらを通り過ぎるとき、昔聞いた隠された泉の物語を思い起こし、ことばにできぬほど強い懐かしさと憧れに捉えられた。しかし夜になって賛美や儀式のすべてが終わり、静寂が戻った頃、神殿にそっと入り込んで憩いの時を過ごしていたごくわずかな巡礼者たちの耳には、ときおり奇蹟のような音が聞こえていた。それは、大な岩で造られた聖堂の礎石の、はるか深い底から聞こえてくる、流水のかすかなこだまだった。そのとき、決まって人々は涙で覆われるのだった。
神の霊は、「いのちの水」のように、見えないけれど、いつも私の内の奥深くに脈々と流れているものであろう。かすかなこだまとして、その流れを、わずかに知るに過ぎないかもしれない。しかし、その霊は、「アッバ、父よ」といつも神に呼びかけているのである。だから私たちは、生きる時も、死ぬときも、神から引き剥がされることはない。聖霊によって、結ばれているのである。