「ミステリ」という言葉がある。「神秘・不可思議・謎」と日本語に訳される。今では、推理小説を「ミステリ」と呼ぶのは、「謎解き」という意味合いである。
相対性理論のアルベルト・アインシュタイン博士は、物忘れがひどかった。汽車に乗ったときのことだ。車掌が検札にやって来たが博士のポケット、かばんに切符はなかった。親切な車掌は「アインシュタイン博士、心配しないでください。あなたが誰か、みな知っています。切符をお買いになったのは間違いありません」と言って、立ち去ろうとしたが、博士は座席の下をのぞき込むなどして切符を探すのをやめなかった。車掌にもう一度「あなたが誰かは知っています」と言われた博士はこう答えた。「それは僕も知っているよ。知らないのはどこへ行くかなんで、切符を探しているのです」。一番の謎は、切符がどこに言ったかではなくて、実は自分の行き先だった。自分の行くべき道こそがミステリである。アインシュタイン程の人が語ると、重みが増す「自宅を忘れたのでタクシーの運転手に聞いた」という逸話も残る博士は車の運転をしなかったそうだ。「あなたは自分がどこから来て、どこに行くかを知らない」という言葉がある。聖書にもこれに近い言葉が語られている。自分の行くべきところ、行かなくてはならないところがどこか、それを本当に分かっているのか、考えさせられる逸話である。
「ミステリ」という言葉は、聖書にも多く使われている用語である。今日の聖書個所、にもこの用語が用いられている。どこに「ミステリ」があるか。16節「信心の秘められた真理は確かに偉大です」。余り翻訳がよくない。「信心」と訳してしまっては、身も蓋もない。字義的には「敬虔」と訳せる言葉なのだが、元々「礼拝」から派生した用語で、礼拝している時の心の状態、を表す。だから通常は「敬虔」と訳す。ただ、この語は誤解を受けやすい。「敬虔な信仰」というと何を思い描くか。酒を飲まない、タバコを吸わない。ギャンブルをしない。決して怒らず、いつも冷静な態度を保ち、いつも静かにワラッテイル。生身の人間にはおよそ無理である。人間の心情や態度、姿勢を表すように受け取られている「敬虔」は、本来は、「教会生活」全般をあらわす概念である。
教会では、礼拝を行う。しかしそれ以外の事柄、食べたり飲んだり、掃除したり、いろいろな人とおしゃべりしたり、笑ったり、泣いたり、バザーをしたり、そういう教会でのもろもろの営みを、一世紀の教会は、「敬虔」という言葉で呼んだのである。そして今日の個所では、「教会生活こそ、最も深いミステリだ」と語るのである。私達は毎週教会に来るのは、ミステリを味わうためである、と言うのである。
テモテへの手紙は「牧会書簡」の一つである。牧師の仕事を、羊を養う羊飼いに喩えて、「牧会」と呼ぶ。本書では、テモテという、おそらくまだ若い牧師に宛てて、パウロが働きのための励ましと助言を行う、という形で記されている手紙である。若い牧師が教会に遣わされる。地方の教会だと中々相談相手がいない。時折、教会で厄介な問題も起こる。経験が浅いため、どうして良いか分からず立ち往生する。今も教会の現場でしばしば生じている問題である。手紙の受け取り手、テモテも、ひとり立ち往生している。信仰の先輩、師でもあるパウロは、近くに居らず相談することができない。そこでパウロは、彼に個人的に手紙を送り、何とか励まし力づけようとした、という風情である。
だからパウロは言う15節「引用」、「そちらに行くのが遅れるかも知れないが、神の家に生じて来る問題に、どのように対処するか、を深く知って欲しい、知る機会として欲しい」。とにかく自分でぶち当たってみろ、そしてともかくそれを味わえというのである。いささか乱暴な言葉である。しかしここで敢えて「神の家」という表現を用いていることが、ポイントである。教会を敢えて神の家と呼ぶ、との意図は何か。
教会には確かにいろいろな問題が起こるだろう。時に人間と人間が衝突する、地域との軋轢が生じる、そこに集う人が、病になりあるいは旅立ち別れていく。そして何より運営の資金の問題等、様々な事柄に悩むのである。しかし、教会は、本来、人間が切り盛りし、やりくりし、何とかするのを超えて、神が確かにおられ、神がそのみ業をなさる神の家だということを、忘れてはならない、というのである。まず神が働かれる場所、つまり「神のミステリ」が起こる場所、が教会なのである。
では「神のミステリ」とは何か、今日の個所では、1世紀の教会で歌われていた讃美歌が引用され、それが語られている。16節「引用」。私訳「キリストは人となり語られたが、聖霊によって神の言葉となった。天使たちが見守る中、全ての民族にみ言葉は伝えられ、見えないけれど、世界にあまねく信じられるようになった」。初代教会が生まれて70年ほど経ち、ギリシャ・ローマ世界に教会が広がり、み言葉が伝えられていった。その教会の宣教の歩みを、この讃美歌は、短いが端的に語っている。神の言葉は、人間の小さな働きによって伝えられ、聖霊によって、あまねく人々の間に広がって行く。人のつたない業も、天使のみ守りの中に置かれ、目には見えないが、その真は世界に広がる」。教会において、今もこれは変わりないミステリである。