説教『目が澄めば、人は明るく輝く』(ルカ11:29~36)

2014年5月25日             主日礼拝・説教要約
説教『目が澄めば、人は明るく輝く』(ルカ11:29~36)

o_091
◎5月最後の主の日を迎えました。先週、つのぶえの会があり、真光寺公園に行きましたが、実に新緑が輝いていました。5月も今週で最後。新緑に輝く5月の光景をあと少し心に映しておきたいと思います。
今日も聖書の御言葉を聞いて参りたいと思いますが、今日の御言葉は、どのようにして私達が輝けるのかを教えています。今日の説教題は、ルカ11:34「目が澄めば、あなたの全身も明るい」から取ったものです。今日は、この言葉を中心に、私達が明るく輝いて生きるために何が必要なのかを探って行きましょう。
◎今日は、後半の11:33~36を先に取り上げ、前半の11:29~32は後で取り上げて参ります。まず、11:33には「ともし火を灯して、それを穴倉の中や升の下に置くものはいない。入って来る人に光が見えるように燭台に置く」とあります。ともし火を燭台に置くように、あなた方の光を高く世に掲げなさいというのです。では、あなた方の光とは何か。それは神様の光・イエス様の光を指します。イエス様の光とは、イエス様の救い・恵み・愛・祝福と言っていいでしょう。今年度の目標聖句で言えば、主イエスにつながって豊かな実を結んだ私達の姿・生き方・私達自身と言えます。そう言われると、とんでもないと言われると思いますが、主は「あなた方は地の塩、世の光である」とおっしゃっているように、私達は世の光、世のともし火なのです。だから、主はその私達自身をこの世の高く掲げて生きよと教えておられるのです。
◎それに続けて主は11:34でこう言われます。「あなた方の体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身も明るいが、濁っていれば体も暗い」。ここで主は「あなた方の体のともし火は目である」と言われます。目がともし火であり、目は光を放つと言います。しかし、その光は、月が太陽の光を反射するように、主イエスの光を反射して光る光です。そして、その光が全身を明るくするためには目が澄んでいなければならないと言います。「目が澄む」とは、「目が純真で単純であること」、つまり「目がただ一つのものを見る」ということです。この世の様々な物に目を奪われず、ただ神様・イエス様を見ることです。
富・異性・名誉・名声・評価など、この世の物に目と心を奪われれば、私達の心は神から離れ、暗くなっていく。それに対して神様・イエス様だけを見つめて生きる時、私達は明るく輝いて生きていけるのです。
だから、11:35において、「あなたの中にある光が消えていないか調べなさい」と、果たして私達の心が暗くなっていないか、あなたの心の光・神の光は消えていないか調べなさいとイエス様は警告するのです。
◎では、どのようにしたらイエス様の光は私達の内に輝き出し、私達自身も輝き出すのでしょうか。その手掛かりは、11:29~32の前半部分にあります。ここから前半部分に入って行きます。まず11:29を見てください。増えてきた群衆に向って主は「今の時代はよこしまだ。あなた方はしるしを欲しがるが、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない」と言われます。群衆はイエス様に天からのしるし、つまり、イエス様が神の子であるかどうかの証拠・奇跡を求めている。それは、邪悪であるというのです。それはなぜか。夫婦の間で「愛しているかどうか証拠を見せよ」と互いに要求し始めたらその愛は薄いものです。
なぜなら、証拠を求める愛は真の愛ではないからです。信仰も同じです。証拠を求める信仰は真の信仰ではありません。ただ、イエス様は「ヨナのしるしのほかには与えられていない」と言われます。ヨナとは、旧約聖書のヨナ書の主人公・預言者ヨナです。ヨナは、神に命じられて外国の都ニネベに行き、「ニネベの町は滅びる」と警告を与えた。すると、都の人々はすべて悔い改めたために滅びから免れます。ですから、「ヨナのしるし」とは、イエス様が与える警告・言葉だと言えます。主イエスは神の言葉以上のしるしは私にはないと言うのです。また11:31には「南の国の女王は…」とあります。これは列王記上10章にある記事、ソロモン王の知恵の前に遠国から訪ねてきた女王がひざまずいた話を引用して、ソロモン王以上の知恵が主イエスの言葉の中にあることを教え、主イエスの言葉の前にひざまずくことを教えるのです。つまり、主イエスは言葉を通して悔い改め・方向転換を迫り、真理を教えられた。そのような主イエスの言葉に耳を傾け主の言葉を心に留めておくこと、そのことで私達は輝き出す。それ以上の天のしるしを求めることは不信仰である。ただ主の言葉を聞くことで私はあなた達の中で輝き出す。そう言われるのです。
◎そのように前半では主の言葉に聞くこと、後半ではただ主のみを見ることを教え、そのことで私達が輝き出すことを教えておられます。特に今日は「目が澄めば人は輝く」ことを心に留めておきましょう。「目が澄む」とは心が清いということでもあります。心が清くなるためには罪から解放されることが必要です。十字架による罪の赦しが必要です。主の救いを受け、主のみを見つめて生きる時、私達は輝き出すのです。