説教『永遠の生命・復活の生命』(Ⅰコリント15:50~58)

2014年10月26日              永眠者記念日礼拝・説教要約
説教『永遠の生命・復活の生命』(Ⅰコリント15:50~58)

tori_009◎10月最後の主日を迎えました。先週は気温も下がり、木の葉も少しずつ色づいてきました。秋が深まって来た今日この頃です。そのように秋が深まる中、今日は天に帰っていかれた召天者、信仰の先輩達を覚える永眠者記念日を迎えています。今日は召天者を心に深く覚えつつ、愛する兄弟姉妹を天に送られたご遺族の上に神様の深い慰めと平安があるように祈りつつ礼拝を捧げたいと思います。この1年間で教会から天に送った方は渡瀬良道さんです。渡瀬兄は鶴川北教会を長年支えてくださった恩人の一人です。渡瀬兄と言えば、あの人懐っこい笑顔と暖かく愛とユーモアにあふれた人柄を思い起こします。今日は、渡瀬さんを初めとする兄弟姉妹のことを思い起こしながら、永遠の命と復活の命について考えて参りましょう。
◎さて、私達は必ず死ぬわけですが、死んだ後どうなるのかはよく分かりません。孔子は「生についても良く知らないのに、死について知るはずがない」と言いました。死後の世界は未知の世界です。しかし、良く生きるには死についても良く考える必要があります。ヨーロッパの修道院では「メメント・モリ(死を覚えよ)」と言い交わしたと言います。死を覚えることが生を覚えることであり、神を覚えることでもありました。ですから、「メメント・モリ」は、「メメント・ドミニ(主を覚えよ)」という言葉と共に互いに言い交わしたのです。今日は、聖書が約束している2つの命、「永遠の命」「復活の命」についてお話します。この2つの命を考えることで、死の意味、生の意味をより深く考えて参りたいと思います。
◎「永遠の命」は新約聖書に何度も出てきます。特にヨハネ福音書とヨハネの手紙には多く用いられています。ヨハネ福音書3:16の言葉「神はその独り子をお与えになるほど、この世を愛された。それは、独り子を信じる者が一人も滅びないで永遠の命を得るためである」は有名です。では「永遠の命」とは何か。
ヨハネ福音書17:3には「永遠の命とは唯一の真の神であるあなたと、あなたがお遣わしになったイエス・キリストを知ることです」とあるように、父なる神と子なる神・イエス様を知ることだと書かれています。
「知る」とは人格的な交わりを持つことを意味します。永遠の命とは、神様・イエス様との深い交わりの中に生きることなのです。聖書のケセン語訳で知られる山浦玄嗣さんは、「永遠の命とは、いつでも活き活きと明るく元気に喜びに溢れてぴちぴちと生きること」と書いておられます。神様・イエス様にしっかりと結ばれて生きる時、どんなに辛い状況でも、明るく元気に喜びに溢れ、輝いて生きていけるのです。
◎この永遠の命は、死後も約束されています。ヨハネ福音書14:1以下には「心を騒がせるな。私の父の家には住む場所がたくさんある。行って場所を用意したら、戻ってきてあなたがたをわたしの元に迎える」とあります。イエス様は、死後、私達の場所を用意して私達を迎えてくださると言うのです。死後、私達は神と共に、イエス様と共に祝福された命に生きることができるのです。そして、そこではまた愛する者と再会することができます。何という希望、喜びでしょうか。セラ・ストックが作り、植村正久牧師が訳した詩に「天に一人を増しぬ(天に一人を増した)」があります。「家には一人減じたり(減った)。楽しき団らんは破れたり。愛する顔、いつもの席に見えぬぞ悲しき。されど、天に一人を増しぬ。清められ、まっとうせられし者、一人。…」。地上の家では愛する者を一人亡くしたけれど、天国の家では一人増えた。私も天国であの愛する者と再会できる。何という喜びと歌うのです。これもまた永遠の命と言えます。
◎そして、もう一つ、聖書において約束されているのが「復活の命」です。コリントⅠの15章には、この世の終わりの日に主イエスが再臨され、この世の救いを完成される。その時、眠っていた死者は霊の体で復活すると記されています。なぜ、そう言えるのか。パウロは、15:3以下で、復活された主が使徒を初め多くの人に出会い、最後に私にも出会ってくださったと書き、また、この主の復活がなければキリスト教の信仰も宣教も無意味だと書いています。主の復活こそ彼にとって、また、キリスト信仰において決定的なものなのです。そしてさらに、この主の復活は死者の復活の初穂であると書き、罪と死はアダムに由来し、罪と死への勝利と復活の命は主イエスに由来すると書きます。それほどまでに主イエスの復活はパウロの信仰・人生・聖書の読み方において決定的でした。旧約に預言されていた罪と死に対する勝利は、主イエスによってもたらされたのです。この主の復活こそ私達の復活を確信させたのです。この信仰が初代教会の人々を力強く支えました。死刑台に向かうボンヘッファーは「これが終わりです。しかし、私にとっては生きることの始まりです」と言い残しました。ここには復活の命が証言されています。私達には、この復活の命と永遠の命が約束されています。私達もこの2つの命を信じて力強く生きて参りましょう。