クリスマスおめでとう。皆さんと共に、今年もクリスマスを迎えられたことを感謝した、い。暖かく、灯りのともった部屋で、ひとりぼっちでなく、誰かといっしょに、安心して、ひと時を過ごせる場所がある。これは当たり前のことではなく、とても貴重なことだ。とりわけ現代では、なお一層そうであろう。
クリスマスとは、主イエス・キリストの誕生を祝う日である。神のひとり子が、赤ん坊として、この世にお生まれになった。私たちもかつて、世に生まれ出た誕生の日があった。それと同じように、ひとりの女から、神の子が誕生したのである。
聖書が記す、初めてのクリスマスの様子を、先ほど読んでいただいた。主イエスの誕生の次第はこうである。「彼ら(マリアとヨセフ)がベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて初めての子を産み、布にくるんで、飼い葉桶に寝かせた」。「かいばおけ」とは、牛や馬が食べる「えさ(わら)」を入れる桶のことである。木や石でできている。皆さんが誕生した時に、初めて寝かされた場所はどこか。「かいばおけ」に寝かされた人はいるだろうか。うちは貧乏だったから、と言っても、皆あたたかな、ベッドや布団に寝かされただろう。なぜ「かいばおけ」なのか。こうその理由が記されている。「宿屋には彼らの泊る所がなかったからである」。
松尾芭蕉の紀行文『奥の細道』にこうした句がある「蚤虱馬の尿する枕もと」。ある宿屋に泊った体験が、生き生きと描かれている。芭蕉が泊ったその宿屋、そこら中にノミやシラミがわいており、さらに馬がおしっこをひっかけてくる、今でならとんでもない宿屋である。聞いているだけで、体中、かゆくなるような気がする。しかし、その時代の宿屋とは、そんな程度だったのだろう。
聖書の国も同じ、旅人は普通、親戚、知り合いや友人の家に宿を借りた。宿屋には泊まろうとはしなかった。なぜなら「蚤虱馬の尿する枕もと」という次第だったからである。宿屋は不潔で物騒な場所、知り合いもいないから、仕方なく泊まる場所であった。しかしマリアとヨセフはその宿屋すら泊れなかった、というのである。「宿屋には彼らの泊る所がなかったからである」。
こういう話を聞いた。ある子どもの施設での出来事。事情があって親と一緒に暮らせない子どもたちが生活している。クリスマスの少し前に、ボランティアたちがやってきて、子どもたちに、初めてのクリスマスの物語を話した。多くの子どもたちは、その話を聞くのが初めてだった。マリアとヨセフがベツレヘムの町に着いても、宿屋はどこもいっぱいだったので、結局、馬小屋に泊まって、マリアがイエスを産み、飼い葉桶の中に寝かせた話を、子どもたちは驚きながら、夢中で聴き入った。
お話の後は、工作の時間だった。飼い葉桶の材料として、子どもたち一人一人が小さな厚紙をもらい、黄色い折り紙を細かく切ってわらに見立て、ベージュ色のフェルトの布を切って赤ん坊のイエスの顔を作り、はぎれでおくるみを作った。ボランティアたちは、一生懸命作っている子どもたちに話しかけ、助けが必要な子には手を貸した。
その一人が6歳の男の子のところに来ると、もう工作は出来上がっていた。しかし、よく見ると、飼い葉桶には赤ん坊が二人いるではないか。そのわけをきいてみると、その子は腕組みをして、真剣な表情で説明を始めた。まだ幼く、クリスマスの物語を一度しか聞いたことがないというのに、物語のほとんどをかなり正確に言うことができた。そして、マリアが赤ん坊のイエスを、飼い葉桶に寝かせる場面に来ると、自分の物語を語り始めた。
「赤ん坊のイエス様が、僕を見て、『泊まるところはある?』って聞いたんだ。だから、『ぼく、お父さんもお母さんもいないから、ないよ』って言ったの。そうしたら、イエス様が、『一緒に泊まったら』って言ったんだ。だけど、『できないよ』って言ったんだ。だって、他の人たちみたいに、イエス様にあげるものが何もなかったから。
だけど、イエス様と一緒にいたくてたまらなかったから、何かプレゼントにできるものないかな、って考えたの。それで、『イエス様をあったかくしてあげるなら、プレゼントになるかな?』って聞いたら、イエス様は言ったんだ。『そうだね、それは何よりもすてきなプレゼントだね』って。だから、飼い葉桶の中に入ったんだ。そうしたら、イエス様がぼくを見て、『ずっと一緒にいていいよ』って言ったの。」なぜ「飼い葉おけの中に」赤ちゃんが二人いたのか、その理由である。
話し終わった男の子の目に涙が光り、その頬に涙がつたった。それから手で顔をおおい、テーブルの上に突っ伏してすすり泣いたのだった。この男の子は、自分を捨てたり、虐待することのない誰かを見つけたのだ。「ずっと」一緒にいてくれる誰かを。