祈祷会・聖書の学び ルカによる福音書11章29~36節

外国の刑務所で、囚人が着ている服、「囚人服」は、横縞ボーダー模様であることが多かった。これは「良く目立つから」という具体的な意図を持っている。つまり一目で囚人と分かる「しるし」となっているのである。ところがこの模様の起源は、どうも聖書にあるらしい。囚人服のボーダー柄は『旧約聖書レビ記』の「二種の糸で織った衣服を身につけてはならない」という律法の誡めに由来している、と言われる。つまり犯罪者、つまり掟破りを律法違反に準えた、ということなのである。

一般に「人の道に外れること」を「邪(よこしま)」という言葉で言い表す。これは囚人服の「横縞」とは全く関係がないのだが、この語の語源は「よこ(横)」に接尾語の「し」と「ま」が付いた語。 接尾語の「し」は、方向を示す接尾語「さ」と同じもので、横の方向を意味する「横さ」「横し」という語もあり、よこしまは「横さま」ともいう。 よこしま同様の構成の語には、「逆さま」「逆しま」「逆さ」がある。この語源から行けば、「邪」とは、真っすぐ前を向いておらず、斜に構える、つまり真っすぐに人や事柄に向かい合わず、真実をはぐらかそうとしている姿勢を表しているだろう。詩編に「二心の者は、神に憎まれる」というみ言葉があるが、ちょうどそのようなニュアンスかもしれない。状況や相手に応じて、ころころと態度を変える、卑怯な生き方こそ、「邪」であり、私たち人間のすべてが陥る可能性を持つ人生態度かもしれない。

「今の時代の者たちはよこしまだ」(29節)と主は言われる。なぜなら「しるし」を欲しがるからだ、というのである。「しるし」とは「証拠」という意味であり、目に見える、誰でも確認できる事物のことである。「ギリシャ人は知恵を求め、ユダヤ人はしるしを求める」とは、使徒パウロの言葉だが、ヘレニズムの環境に生育したユダヤ人だけあって、それぞれの民族の価値観の在りかを、的確に見抜いている。

「百聞は一見に如かず」、判断に際して、人間が見えるものにどれだけ左右されているか、見えるものに捕らわれているかを、ユダヤ人は良く知っていたのである。だから神から遣わされた人だというなら、それなりのカリスマ、即ち、奇跡や癒しという常人には不可能な大いなるわざを、期待したのである。主イエスも、現在の医療行為とは比べるべきでないが、病める人、悪霊に苦しむ大勢の人を、巡回訪問して癒したことは間違いはない。それで主イエスのうわさや評判が、巷間に広まっていった。

人間は見えるものに弱い、と言ったが、その通り、人々は主イエスに見えるものを期待したし、それが行われることを、つねに注視していたのであろう。主イエスの活動は、「神の国の宣教」と、「共なる食事」と、「癒し」、この3つが密接に結びついていた。食卓で飲み食いしつつ、さまざまな神の国についての講話、譬話が語られ、それが招かれた人への豊かな癒しに結実したのである。この3つのどれもばらばらではなく、深いところでつながっていたのである。しかし人は、「癒し」という目に見える奇跡的な「しるし」しか眼中にない、だからこそ主イエスは「よこしま」と呼ぶのである。

「ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない」。「ヨナのしるし」とは聊か謎めいた言い方である。旧約のヨナ書は、預言書の中の一冊であるが、他の預言書とは大分趣が違う。教会学校等で、紙芝居でおなじみの物語である。説話形式で、ヨナを主人公に配した昔話風な風情を持った文学である。預言書と言えば、通常はその当事者である預言者の口にした言葉をまとめたものだが、この文書は、似たような形式の文学「ルツ記」と同時代に成立した書とみなされており、異邦世界の人々に好意的な視点で記されているゆえに、紀元前2~3世紀頃、ユダヤの国の人々が外国に対して内向き、排他的となり、民族主義的色彩を強く帯びた時に、それを批判するために公にされたと考えられている。

ヨナは神から預言者としての召命を受けるが、この使命を拒絶し、アッシリアのニネヴェとは反対方向、地中海沿岸のタルシシュに向けて逃亡する。この反抗的態度に怒った神は、彼の乗った船に激しい嵐を送り翻弄する。乗員はくじで占い、この原因がヨナにあることを突き止める。ヨナの告白を聞いた船長は大いに怖れ、神に赦しを願うが、嵐は止まずますますひどくなったので、ヨナは海に放り込まれる。海に放り込まれた預言者は、大きな魚に飲み込まれ、3日3晩魚の腹の中で過ごした後、ニネヴェの町の近郊で吐き出される。

「ヨナのしるし」とは、昔からこの「3日3晩の腹の中」にヨナがいたという故事から、十字架から取り下ろされて復活に至るまで、主イエスが墓に葬られていた「事実」の予型と理解されてきた。ところが主イエスの埋葬を「ヨナのしるし」と理解すると、この主イエスの発言が、何のことやら分からなく なる。

ヨナはニネヴェにたどり着いた後、町の人々に、「40日したらニネヴェは滅ぼされる」と告げたのみだった。ところがその短い、そっけない預言の言葉を、ニネヴェの人々は受け入れて、王を始めとして、市井の人々はこぞって悔い改めたのである。それに続く「南の国の女王の来訪」も、シバの国(アフリカ・エチオピア?)の女王が、ソロモンの下を訪れて、知恵比べをした故事を指している。シバの女王自らが、ソロモンに知恵の言葉をを求めたのである。つまり「ヨナのしるし」とは、主イエスが人々に語った「ことば」を指している。人は目に見えるものに弱い。奇跡や力あるわざをこの目で見て、確かめたら信用するという心を持っている。しかし目に見えるものだけが、真実なのではない。却って目に見えるものによって惑わされ、目を眩ませられるのも人間の性である。

神はイスラエルを導くにために、絶えず言葉を語り、言葉によって救いを告げ知らされたのである。そして主イエスのみわざも、またその本質は「ことば」なのである。「ニネヴェの人々はヨナの説教を聞いて、悔い改めた」と主は言われる。ヨナのほんの短い言葉を、彼らは「神の言葉」として聞いたのである。神の言葉は、人間に悔い改めを起こすのである。「悔い改め」即ち「心の方向転換」は、目に見えるものによっては、なされえない。今も私たちに、神の言葉は悔い改めを迫って来るのである。