祈祷会・聖書の学び 申命記7章6~11節

昨年8月12日、イスラエルのネタニヤフ首相は国内メディア(i24NEWS)のインタビューに答えて、ガザ戦争とその後の構想について、「世代を超えた使命」に基づくと説明した上で、ヨルダンとエジプトをはじめ、周辺諸国を含んだ一帯を自国の領土と見なす、いわゆる「大イスラエル」主義に、自身の構想が「大いに」関連する旨の発言をおこなったこの発言からすると。現在、イスラエルが周辺諸国に対して行っている攻撃は、テロに対する自衛ではなくて、「大イスラエル」構想の一環として理解されることとなるだろう。

「大イスラエル」とは、ソロモン王の時代、領土が最大版図だったという旧約の記述に準拠して、エジプトのナイル川からイラクのユーフラテス川まで(レバノン、シリア、ヨルダンなど周辺国を含む地域)を指すことになる。かの王の時代、王国の財政資金の増大と、周辺諸国の弱体化によって、領土の拡大が図られただろうことは頷ける。但し、メソポタミアは覇権国家が絶えずしのぎを削る地域であり、王国としてのイスラエルも、その後、台頭する大帝国から侵略を受け、紀元前722年には北王国がアッシリアによって、次いで前587年には南王国がバビロニアによって滅亡する運命をたどるのである。

旧約の律法や預言書のここそこの個所において、この「大イスラエル」という理念を理想の国家的課題として、あるいは回復のヴィジョンとして語る文言を読むことができる。だからそういう個所に自らを同一視して、現在のあり方を正当化することができるのか。そもそも旧約の記述は、イスラエルの歩みの神学的な解釈であり、神のみわざの意味を問おうとし、そこから自分たちの歩みの方向、「幸いに至る道」への思索の表現であり、自分たちの覇権の正当性を保証するものではないのである。

旧約は、時代や生活の座の異なる、多様な伝承のモザイク的集合体であるから、コンテキストによって読まれなければ、偏向、偏狭な思考に陥る危険がある。申命記の中核部分は、ヨシヤ王の改革の台本のように記された背景が認められるので、それまでイスラエル王国が志向してきた考え方を、批判や克服の視点が含まれているといえる。それまで多少なりとも王国の国是とも言うべき「大イスラエル」主義に対する懐疑や批判も含まれているところに、この書のある種の意味と価値があるだろう。

今日の個所は、「大イスラエル」への批判として読むことができるテキストである。6節「あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は地の面にいるすべての民の中からあなたを選び、御自分の宝の民とされた」。「神の選民」としてのイスラエルについて語られている。「聖」という漢字は、「耳」「口」「王(元々は人を表す字)」の3つが組み合わされた文字で、神の声を「耳」で聞き、「口」で祈りを捧げる人を表し、そこから転じて「知徳の優れた立派な人物」や「神聖なもの」を意味する、清らかで神々しいというニュアンスを表すようになったと説明される。ところが、聖書の意味する「聖」とは、「浄不浄」や「神々しい」というような意味は希薄で、人間の属性ではなく、もっぱら神の権能の表現なのである。即ち、「区別」、さらに「選び分かつ」という意味の用語である。神は人間を超越するゆえに、「聖」であり、さらにそのような神が選ばれるもの、つながるものはすべて、「聖」となるのであり、人間の側には何の根拠も存しないのである。

するとその「選び」基準とは何か、が気になる所である。人間の「選択」ならば、合理性が一番の基準になるだろう。資質やら付加価値やら技能やら学歴やらが、この世の基準である。そして自分が必要とされること、自分を頼ってもらえること、自分の価値が認められること、つまり「承認欲求」を満たすのは、いつも何らかの「選び」とも言えるだろう。人間はつねに「選び」を巡って、いろいろ取沙汰し、右往左往しているのである。

神の選びとは何か。7節「主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった」。「どの民よりも貧弱であった」からだというのである。「貧弱」、言い換えれば、「小さい」、「取るに足らない」という具合に、良い所を見つけようにも、どうにもどこにも見当たらない。という情けない様子、これにわざわざ目を留めて、ましてや「選ぶ」というのだから、酔狂にも程がある、というところだろうか。「蓼食う虫も好き好き」と諺にあるように、聖書の神は、よっぽどおかしな見識眼の持ち主か、あるいは奇想天外な方なのだろう。だからこそ人ではなく神なのかもしれない。

神の選びの理由はさらにこう語られている。8節「ただ、あなたに対する主の愛のゆえに」ただ神がイスラエルを愛されたから、神の愛が、ただイスラエルに注がれたからだというのである。よく、人間の愛は「条件つき」であり、「神の愛は無条件」であると言われる。確かに巷間では、結婚相手を考える時に、いろいろな条件を立てて、選びの判断を行うのが人間である。かつては「三高」(高学歴・高収入・高身長)と言われ、今では「四低」(低姿勢・低依存・低リスク・低燃費)や「三生」(生存力・生活力・生産力)へと変化してきているそうである。但し、その条件が整ったからと言っても、即「幸せ。幸い」かと問われるならどうであろうか。これらの条件は「必要条件」とみなされるかもしれないとはいえ、「十分条件」であるとは言い難い。何となれば、生きていてなんぼ、元気でいてなんぼの人生なのである。「死」を前にしては、すべての人間の条件は、破綻するのである。

イスラエル人とは、本来、聖書の神ヤーウェを奉じる人々であり、出自や血筋によらず多様な境遇、人生行路において、不思議に神と出会い、ただ「信仰」によって、神と結びついている人々のことであった。ある意味で国家や国土を超越した絆によって、直截に神との関係を結ぶ人々である。その絆は、供物や犠牲如何によるのではなく、ただ一方的な神の愛によって、保たれているのである。

主イエスの宣教における「神の国」は、まさにこの神の選びの愛の告知に他ならない。「子どものようにならなければ、子どものように受け入れる人でなければ、神の国には入れない」と主は言われた。この国は、「ちぢみ志向」の国と言われる。何事によらず小さく小ぶりに、こじゃれてまとめるのに、巧みであるという。「重厚長大」から「軽薄短小」の時代に変化したように、今、世界の超大国、イスラエル、この国も含めて、「あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった」というみ言葉に真剣に向かう時代が来ているとは言えないだろうか。