かつて高名なプロ野球選手で、幾度もホームラン王に輝いた人が語っていた。「ボールを打つ時、歯を食いしばり、力を込めてバットを振るので、若い時から、奥歯がぐらぐらです」。口をキュッと結び、歯を食いしばって自分の力を振り絞る、そうして生み出された超人的な記録の背後に、並々ならぬ肉体への負荷があることを教えてくれる。余人の介入を許さない、孤高に徹する生き方をする人にふさわしい逸話である。
またある紙面に「人はなぜ集中するとポカンと口が開くのか?」という質問が載せられていた。これに対して次のような答えが寄せられた。「たとえば話を聞いている場合、その人の動きと話を逃すまいという意識が強くなると聴覚と視覚、それを受け取る脳の働きに集中し、他の部分がおろそかになって行くのだと思います。普段歩いているときに、どちらの足から歩き出しているのかや足のどこに体重をおいているのだろうなどとは考えないのと少し似ているかもしれません」。ひとつのことに集中すると、他のことが疎かになってしまうというのは、十分にありうるだろう。「俺の頭は単線なんだ」と見えを切った政治家がいるが、同時に、いくつものことを並行して行うというのは、人間には至難の業なのだろう。
神社の前に置かれている「狛犬」は、口が開いた像(阿型)と口が閉じた像(吽型)の二つが左右に鎮座しているが、これも人間が生きる時に「歯を食いしばるか」、「ぽかんと口を開けるか」この二つの姿勢を、たとえによって表現しているようで、実に興味深い。人生「歯を食いしばる」ことだけで成り立つのではなくて、「口をぽかんと開ける」中で、良い仕事がなされることもある、というのではないか。
今日の個所は、7章2節以下であるが、6章13節以下に、直に続く文章である。間の14節から7章1節までは、今では失われたしまったパウロの他の手紙の断片が、紛れ込んだのではないかと聖書学者たちは推測している。確かにそのように続けて読んだ方が、文書の繋がりがいいし、意味も良く通っている。一方、間に挟まっている部分は、実に激しい調子で、語気荒く語られているので、まったく異質な文章であるとの感は否めない。この断片を、『涙の手紙』の一部とみなす学者も多い。
この断片で主張されていることは、「正義と不法」「光と闇」「信仰と不信仰」「キリストとベリアル(悪魔)」という具合に、「あれかこれか」思考に貫かれている。こういう二分法は、ポピュリズム(大衆迎合主義)で多用される論理であり、ファシズムやカルトの思考基盤となっていることは、つとに知られている。そりゃ、「お昼に何を食べようか、何を飲もうか」と、どっちつかずでいつまでも迷っていたら、らちが開かず、空腹は満たされないだろう。もっとも、「衣食住」で自己の選択の余地があることは、実に幸いのことであるし、その生活が豊かでゆとりあることの証でもあろう。そういう所では「あれかこれか」どちらかに決めるということが必要となる。しかし、生きる時の人間の問題を、すべて「あれかこれか」に限定し、統一し、それ以外を捨象してしまうとしたら、ひとり一人の異なる人生を、一色に塗り込め、狭苦しいところに押し込めて、がんじがらめにするだろう。だから「あれかこれか」は人間の生き方にとって、およそ例外的なものだ言える。もし誰かが「あれかこれか」の二分法でしか物事を語らない時には、十分、用心した方がいい。
パウロもコリントの教会の現状を憂いて、何とかそれを打破しようと一気呵成に『涙の手紙』を書き送った。ところがそれは、卓越した手腕を持つ外科医が手術をし、見事に患部を切り裂き、病巣を摘出したのだが、その後、患部を縫合もせず、包帯も巻かず、放置するような具合であったから、後で冷静になって顧みると、やはりコリントの教会の人々のことが気がかり、心配になったのだろう。やはりパウロは魂の配慮者、牧者なのである。
そのような背景から、今日の個所を読むと、いろいろ興味深い点が見えて来る。2節「わたしたちに心を開いてください」とパウロは呼びかけるが、ただ呼びかけるだけで相手が心を開くとは思っていない。だから13節で彼はこう語るのである。「コリントの人たち、わたしたちはあなたがたに率直に語り、心を広く開きました」。まずパウロ自身が自ら心を開いていることを示し、決してかたくなではないことを明らかにするのである、但し「率直に語り」と訳されている部分は、意訳され過ぎていて、原文の意味合いを聊か損ねている。この翻訳だと「嘘や隠し事なく、正直に語っている」という意味合いとなる。原文では「わたしたちの口は、あなたがたに向かって、(大きく)開かれており」という文章である。新共同訳では「心と口」のまっすぐな繋がりという観念の表現として、「率直」という訳語を当てている。
しかしここでもう少しパウロの心に則って考えてみれば、「口が開かれている」とは、ひとつに「警戒心、猜疑心」というような相手に敵対する気持ちは、まったく持っていないことの表明ではないか、と理解したいのである。他人に負けまい、馬鹿にされたくない、見下されたくない時に、人は口を固く閉じ、歯を食いしばるのである。「口を開ける」とは相手に対して、無警戒、無防備であることの表明でもある。
それと同時に、コリントの人々の心の内奥に対して、パウロ自身為す術がない、と手を上げていることの告白ではないのか。『涙の手紙』がもたらした影響、そして打ちひしがれたようなコリントの教会のこれからの歩みについて、もはやパウロは実のところ為す術なく感じている。もはやそこでできるのは「口を開くこと」、それも人間に対して指示したり命令したりするのではなくて、ただ神に向かって語ること、即ち「祈り」の他に何ら持ち合わせのないことを、示そうとしているのだろう。
マケドニアに滞在していた時に、パウロはようやく弟子テトスと再会することができ、その後の教会の様子、状況の好転を知らされたのであろう。10節に「神の御心に適った悲しみは、取り消されることのない救いに通じる悔い改めを生じさせ、世の悲しみは死をもたらします」と語られるように、悲しみが悲しみで終わらず、「悔い改め」つまり人々の心の方向が変わったことを知って、パウロ自身、深く安堵していることが伺える。歯を食いしばった中で変化が生じたのではなく、口を開いた状態の中で、新しい関係、出発が与えられる。神の憐れみは、鳥のひなが大きく口を開けるその中に、エサを運ぶ親鳥の有様にさも似ているだろうか。