最近、こういう文章を読んだ。「ネズミはどうやら仲間思いらしい。海外での研究によると、仲間のネズミが閉じこめられているのを見れば、救出しようと試みるそうだ。エサを見せた場合でも、仲間の救出を優先する傾向があるようで、何の得がなくても、仲間を救うとはまるで小さなヒーローである。人間でいう共感力や優しさのようなものが備わっているのか。人間に対してもネズミが同じ仲間だと思ってくれているわけではないだろうが、その体長七〇センチのネズミは間違いなく大勢の人間を救ってくれた」。イソップの「猫とねずみ」の話も、ねずみたちが集まり、猫の脅威に対抗する方策を、皆で頭を突き合わせて協議する場面がある。「ねずみが仲間思い」、というのは、この地球の生命の営みから考えるに、成程と思える。小さく非力な「哺乳類」が、この星で何とか生き残ることができている背景には、人間を含めて、「共生」というあり方が、大きく影響しているのではないか。ただこの記事の中で言及される「大勢の人間を救った大ねずみ」とは、一体何のことか、何を想像されるか。それは後のお楽しみとして。
「仲間思い」、人間的に言えば「同情、共感、思いやり」等に言い換えることができる。「相手の心を思い計ること」、人間の想像力の中で、最も大きな働きと考えられているが、精神科学者によれば、アプリオリ、初めから備わっている能力ではないらしい。「想像力」についてこんな実験があるという。小さい子ども達にこんな紙芝居を見せる。「A君とBさんが仲良くおもちゃで遊んでいる。おやつの時間になったので、今まで遊んでいたおもちゃを、二人で引き出しにしまった。A君はその後、トイレに行った。そのすきにBさんはおもちゃをこっそりと引き出しから出して、別の箱にしまった。おやつの後、もう一度おもちゃで遊ぶことになった。さて、A君はおもちゃを取り出すのに、どちらに行ったでしょう。引き出し、それとも箱?」。子ども達はみな「箱」と答える。しかしA君はBさんがおもちゃを移し替えたことを知らないはずである。大人ならば、「知らない」という事情を勘案して、自分が仕舞ったはずの「引き出し」と答える。これが「想像力(見えないものを見る力)」というものである。そして「思いやる」という人間にとってのあたりまえの心の働きもまた、実は後天的に、いつかどこかで学び取った能力なのである。
今日の聖書個所、マルコ福音書2章の冒頭の物語は、奇想天外で、生き生きした情景を映し出している。吉本隆明氏は、「福音書」についてもいくつかの著作をものしている作家批評家であるが、『喩としての聖書 マルコ伝』という題名の著作において、その福音書に語られているのは、たとえ話であろうが、奇跡物語であろうが、すべて「喩」であることを論じている。今日の聖書個所など、まさに典型的にそういう文学性を示しているのではないかと思わされる。
「中風の人」が「床」、つまり担架のようなものに乗せられてやって来る。「中風」という語「パラリーシス」は、「パラリンピック」のもとになった用語のひとつでもある。身体の半身が麻痺して動かすことができない、その病人を4人の人が担いで、主イエスのもとに連れて行こうというのである。しかし肝心の主がおられる家は、「大勢の人が集まったので、戸口の辺りまですきまもないほどになった。(その中で)イエスが御言葉を語っておられ」たという。こんな数行ほどの情景描写の中に、「人間」というものが何であるのか、幾つもの事柄がモザイクのように散りばめられている。評判の人が近くに来られたという噂で、大勢の人々が押し掛け、詰め寄せ、大騒ぎになった。沢山の人間が群れをなして集まっているところには、何か良いことがあるのだろう、という心理が働く。今も同じような思いで、人は人込み中に集まり、列を作る。そこに中風の人を連れた4人がやって来る。しかし「群衆に阻まれて、イエスのもとに連れてゆくことができなかった」。「丈夫な人に医者はいらない」と主は言われたが、最も治療や癒しが必要な人が、阻まれて、医療の恩恵から閉め出される、という今日起っている現実が、二重写しになっているようだ。
この4人の素性はまったく記されていない。「信仰ある家族、あるいは友人であろう」と想像する学者もいる。素性はどうあれ、何かの絆か、たまたまか、何ほどかの縁があって、運ぶことになったのだろう。人生の中でこういう事態が生じる事は、結構あるのではないか。なぜか「巻き込まれる」という状況で、まあ付き合いだからと軽い気持ちで引き受けて、それが大ごとに繋がる。肝心の目的場所には、戸口まで人が大勢ひしめいていて、とてもじゃないが割り込めそうにない。
「さあ、皆さんならどうする」。1.あきらめる、2.しばらく待つ、3.強行突破する、4.抜け道を捜す、5.火事だーと大騒ぎして、人々があわてて出てきた隙に潜り込む、等々、いろいろな手段と方法を取り得る可能性はある。問題は、そういう想像力を持ち合わせているか、ということである。それは個人の能力や資質の問題ではないだろう。行くべき道が塞がれて、前には障害物のように、人の波で塞がっている。この時、それでもどこかに道はないかどうか、一歩進ませる原動力になるものは、何なのか。
「生命は必ず抜け道を探し出す」という言葉がある。これまで地球は何度も大絶滅の危機に遭遇しながら、それでも生命が形を変えて、次の世代に受け継がれてきた。その背景には、生命自身がいろいろなやり方で抜け道、逃れる道を見いだして来たからだというのである。抜け道、逃れる道を見いだそうとすることは、生命の自然な摂理なのであろう。この4人が、人波によって塞がれている正面玄関への道ではなく、屋根に上り、天井を剥ぐといういわば「上からの道」を見出した、そこにはやはり、生命のダイナミックな跳躍がり、そして何より、病気で苦しむひとりの生命に、何とか共にあろうとする寄り添う思いが、「抜け道」を見出させる力なのだろう。
だからこの4人の思いと行いを、「乱暴」とか「無礼」、また「非常識」とか評する人は、「生命」というものの何たるか、ほんとうの姿、有様を知らない人である。「イエスのもとに連れて行くことができなかったので、イエスがおられる辺りの屋根をはがして穴をあけ、病人の寝ている床をつり降ろした」、こんな芸当は、人の評判、自分の損得だけ考えて行動するような、せこい考えの持ち主には、到底まねのできないことだろう。彼らが開けた天井の穴は、私たちの臆病に縮こまり閉ざされた心、魂に、風穴を穿つほどのものではなかったか。だから生命の主は言われる。「イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、「子よ、あなたの罪は赦される」。
主イエスは、この4人の振る舞いを「その人たちの信仰」として受け止められた。マルコにとって、「信仰」とは、まさにこういう事柄なのである。教理がどうの、信仰告白がどうの、規則がどうの、よりももっと前があるだろう。自分たちに何ができるわけではない、とにかくつらい思いをしている人の命と共にあって、その人と共に、主イエスのもとにやって来て、共に祈り願うしかないではないか。天井に穴を開けて釣り下ろすような、無様なやり方でも、主イエスのもとに、行けば、何とかなる。
さらに主イエスは、担がれて来たこの中風の人に、「あなたの罪は赦された」という言葉を語られている。そうだろうと思う、どういう関係、素性かは分からないが、4人で力を合わせてここまで運び、屋上に上って天井を剥いで自分の前につり下ろす、こんな振る舞いは、「愛」がなければ、できない芸当だろう。こんな人間と人間の繋がりの中に、病人は置かれているのである。この生命の暖かさの中に、「罪」は力を失うだろう。「愛はすべての咎を覆う」のである。
冒頭のお話の続きである。アフリカオニネズミの「マガワ」が死んだそうだ。八歳。別名は「ヒーロー・ラット(英雄ネズミ)」。内戦時代の地雷が大量に埋められたままのカンボジアで地雷捜しに貢献した。訓練によって爆発物の化学物質をかぎ分けることができるようになった。体重の軽さのおかげで地雷の上を走っても爆発しないそうで、昨年引退するまでの五年間に百個を超える地雷や爆発物を見つけたというから、驚く。人間なら四日はかかる、テニスコートほどの範囲の捜索がマガワなら三十分。どんなに心強いヒーローだったことだろう。こうしたネズミはカンボジアのほかアンゴラ、モザンビークなどでも活躍していると聞く。人間の争いの後始末をネズミが手伝っている。仲間思いのネズミならどうして人が人を傷つける道具を埋めたのとクビをかしげながらの作業かもしれない。(1月19日付「筆洗」)
マルコは、主イエスの宣教にまつわるサプライズの出来事を通して、人間のあり様、あり方、さらにそこから教会の働きとは何であるかを、たとえ話のようにここに描き出しているのであろう。苦しむひとりの寝ている床を抱えて、屋根に上り、天井を剥いで病人を釣り下ろす、無茶で無様で、決してスマートではない。自分たちには病を癒す力はないが、あの方のところなら、何とかなるのではないか、そのように大したことは出来ないが、それでもあれこれやってみる、それこそ生きた生命の働きであろうし、信仰のまことであろう。