「わたしの言葉によって」ヨハネによる福音書15章1~11節

「目には青葉」と詠われる新緑の時季である。初夏の陽光を浴び、青い苗や芽がぐんぐん伸びる季節の訪れである。今日の聖書個所は有名な「主イエスはまことのぶどうの木」のみ言葉である。この青葉の美しい時期、ぶどうの木も、枝を伸ばし、若葉を拡げ、花をつけ、実を付ける準備を始める頃である。当然、ぶどう園では、ぶどう作りの作業がたけなわとなる時期でもある。今の季節に味わうにふさわしい個所と言えるだろう。

ある牧師から、ぶどう作りにまつわる、こんな話を聞いた。「家内の従兄弟が、山梨で葡萄園をもっている家の長男でありまして、県庁に勤めていたということもあって、葡萄園を継がないということを、私は不思議に思って、『何故、この葡萄園を継がないのか、日々の努めを果たしながら、葡萄の木を育てることはできるのではないか』。私はそういうふうに素人考えで、尋ねてみたことがあります。その家内の従兄弟は『それはできない。毎日足音を聞かせなければいけないんだ』。そういうふうに答えて、私をそれとなく諭してくれました」。

今、農家も米を作るのに、土日だけ田圃の作業をし、週日は勤めに出ている、という人も多い。私の知人で、週日は大学で「哲学」を講じ、土日は米作りに勤しんでいた人がいる。カントの専門家であったが、学問と農業に、相通じるものがあるのだろう。ところがぶどう作りの現実を知っている人は、「そんなことはできない」、という。「毎日、足音を聞かせなければ」という言い方は、もちろんものの喩えであるが、その実をよく表現している「味のある言い方」と思わされる。あるぶどうの栽培家が自らの仕事をこう説明している。「ぶどうはとても手のかかる作物です。苗木を植えてから収穫までに5年程度かかるといわれています。はさみを使って、切る作業がとても多いです。一房一房、一粒一粒を丁寧に処理をしていきます。数週間同じ作業が続くことも多々あるので、集中力と忍耐力が必要です。こつこつ作業することが好きな人にはぴったりかもしれません」。「とても手のかかる作物」、「はさみを使って、一房一房、一粒一粒を丁寧に、こつこつと」という作業が必要なことを、「毎日、足音を聞かせる」という喩えは物語っているのだろう。片手間でできる仕事ではない。

よく知られ、何度も目にしたことのあるテキストであるが、「ぶどうの木の喩え」を改めて読んでみて、ふと気づいたことがある。2節「わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる」。先ほどの、ぶどう作りの作業の有様が、そっくりそのままが物語られている。やはり何千年経とうが、命あるものを育て、それを収穫し、生活をするという営みは、根本では変わらないものがある。そういう変わらない仕事を行うこと、人に(それは非常に地道なものだ)に、深い敬意を覚えるものだ。現代、「こつこつ」が見失われたところに、当り前の人生の希望が失われる事態が生じているのではないか。人間の日常、衣食住とは、そういう変わらないものを土台として成り立っている。

ところで、冒頭のみ言葉「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である」、皆さんはこの言葉をどう聞くだろうか。「おや」と感じないか。主イエスがぶどうの木であり、「父」、つまり神が「農夫」であるというのである。普通は逆だろう。神がまことの「ぶどうの木」であり、その御子、主イエスが農夫として、細々とそのぶどうの木のお世話をする、と普通、想像するのではないか。主イエスは、神自らが、「はさみを使って、一房一房、一粒一粒を丁寧に、こつこつと」立ち働かれる、というのである。

おそらく主イエスは、創世記の冒頭にある、創造物語、2章から始まる「エデンの園」の物語を思い浮かべているのではないか。神は最初の人アダムに、食べるに良い果実を結ぶたくさんの木々を生えさせられた、という。植えっぱなしで後は知らぬ存ぜぬ、ということはないだろう。古代の人間は、苗を植えたなら、その世話をすること、収穫までの多岐にわたる作業の必要なことを、直ぐに思い浮かべただろう。それがなくては、「食べるに良い果実」は実らないことを、ちゃんと知っている。だから神は、当然「農夫」というイメージと重なるのである。

創世記3章で、アダムとエバが禁断の木の実を食べてしまい、罪を犯した時の様子を次のように記している。8節「その日、風の吹くころ、主なる神が園の中を歩く音が聞こえてきた」。「毎日足音を聞かせなければいけないんだ」と語るぶどう作りの実際を知る人の言葉と、見事につながっているではないか。神は自分が植えた果実の苗、木々の所に、毎日足を運んで、足音を聞かせる方なのである。アダムもエバもまた、神によって造られた、地に据えられた生命あるものである。神は、自らがお創りになった命あるものすべてに、毎日、毎日、踏みゆく足音を聞かせる方なのである。姿かたちは見えないかもしれない。しかしその歩まれる音を、人はみ言葉として聞くことができる、神の言葉は、「福音」という音、よい音信として、私たちの耳に確かに届くのである。

4節「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない」と主は言われる。これもぶどう作りの作業の実際を、豊かに映し出している言葉である。この季節になると、ぶどう園の農夫はぶどうの幹に手を当ててみるというのである。そうして幹が温まっているか、血が通っているかを確かめる。またその幹に耳を当ててみる、大地から幹に、そしてぶどうの枝に、さらにの先々まで養分を運ぶ樹液が勢いよく流れていることを、確かめるのである。音が聞こえるのだという。毎日ぶどうの木に足音を聞かせる農夫は、ぶどうの音を聞く方でもある。いわば私たちの祈りを聞かれるということだろう。

ぶどうを育てる人たちは、そういうふうにしてぶどうの収穫の時を楽しみにしながら、様々な手を差し伸べてくれているということである。「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である」。神がぶどうの木を育てる農夫としてともにいてくださる。このひと言のみ言葉に、どれだけ神と人との、そしてキリストと私たちの真実が語られていることだろうか。

イタリア、カスシアにある修道院に、こういう伝説が伝えられている。昔、結婚し、子どもも生まれ、普通の結婚生活を送り、夫や子どもを天国へ送り出したあと修道女になったひとり女性がいた。彼女は字が読めなかったので、修道院の規則をすべて覚えるのには時間がかかった。そのため数々の失敗もした。修道院長は厳しく、皆の前で叱ったので、修道女たちも院長に倣って、女性にきつくあたった。そんなある日、修道院長は彼女に庭の隅の壁際にある古いぶどうの樹に、毎朝、毎晩、水をやるようにと命じた。その樹はすでに枯れてしまっていて、水をやっても無駄だと思われた。しかし、彼女は院長の命令ゆえ、従順にそれに従った。ただひたすら、毎朝、毎晩、欠かすことなく水をやり続けた。1年も経ったある日、枯枝に小さな黄緑の芽が息吹いた、という。このぶどうの樹はイタリアのカスシアの修道院に、今も見ることができるそうである。

この伝説もまた、「ぶどうの木に、毎日、足音を聞かせる」ことの喩えなのであろう。そして生命は、たとえ枯れ果てていると思われるような木にも、毎日訪れて下さる神の足音が響く時に、新しい息吹を息づかせる、ということなのであろう。私たちの生命もまた、同じである。

「ぶどうを収穫するまでにさまざまな困難が待ち受けています。天候による影響、害虫・害獣による被害、病気の発生などが起こらないよう、注意を払いながら栽培していきます。しかし、万全を期していても生育に影響がでてしまいます。なにか問題が起きた時素早く対処できるかどうかが大切です」。私たちがいただくぶどうの実は、このような心配りの中で成長し結実する。ぶどう園の農夫である、神のはたらきがあってこそである。