「すべてが赦される」マルコによる福音書3章20~27節

まもなく3月を迎える。受難節頃の気候の変化、冬から春への移り変わり、英国の諺では「狼のように来たり、小羊のように去って行く」という言辞があることを紹介した。そこでこんな新聞記事を読んだ。「狭い森にライオンとヒツジがすんでいるとする。強いライオンは弱いヒツジを食べようとしてばかり。こんな場所で、ライオンとヒツジがともに生きるのは不可能だろう。米国の公民権運動の指導者ジェシー・ジャクソン師が亡くなった。84歳。黒人差別撤廃を訴えたキング牧師の遺志を受け継ぐ、その人の考えは違っていた。ライオンとヒツジはともに暮らせると語った。1988年、大統領選に挑んだ際の演説である『ライオンもヒツジも森が火事になることは望まぬだろう』」(2月19日付「筆洗」)。誰も彼も、森が火事になることは望まない。異常気象の昨今では、小さな種火が何週間も続く山火事にもなる。ところがそうなることは分かっているのに、あえて火をつけようとするけしからぬ輩が、この世にはいる。

この追悼記事で語られるジャクソン氏、キング牧師の遺志を受け継いだ人と言われるが、“I am Somebody(私は誰かだ)“と題されるスピーチ(どちらかと言えば「詩」)をしたことで知られている。少し紹介したい「私は何者かだ!私は何者かだ!私は貧しいかもしれない/が、私は何者かだ。私は若いかもしれない/が、私は何者かだ。私は生活保護を受けているかもしれない/が、私は何者かだ。私は小さいかもしれない/が、私は何者かだ。私は間違いを犯したかもしれない/が、私は何者かだ」。

”Somebody”「だれか、何者か」、「私」は世に名を知られているような有名で人物ではない、名もなきひとりの人だ、他人からは「貧乏人」と言われたり、「若造」と言われたり、「小僧っ子」と言われたり、さらに「罪人」と言われたりする。いったい「私は誰なのか」、それでも、かけがえのない、ただ一人の人間、「何者か」なのだ。1972年8月、米ロサンゼルスで開かれた「ワッツタックス・コンサート」でこのスピーチをした時に、”I am Somebody(私は誰かだ)“と彼が声を張り上げると、巨大なスタジアムを埋めた観衆が同じ言葉を返した、という。彼の言葉は、聴衆の心を一つにしたのである。今、こういう言葉をどこに行けば聴けるのか、

さて、今日の聖書の個所は、マルコ3章20節以下の段落である。まず21節「身内の人たちは」と語られる。31節以下では再度、身内の人間たちが登場するが、「イエスの母と兄弟たちが来て」と、「身内」とは誰なのかが、より具体的に、説明されている。同じ事柄の記述が繰り返される、というのは、この福音書の著者マルコが、あえて意図的にそういう書き方をしている訳で、やはり「強調」ということだろう。節の後半には、「『あの男は気が変になっている』と言われていたからである」という具合に、身内の人々がやって来た理由が説明されている。

「気が変になる」という訳語には、翻訳者の苦労が偲ばれる。「エクセステー」というギリシア語が使われているのだが。この言葉は英語の「エクスタシー」という単語の語源である。原形は「エクスターシス」と言い、「自分の存在から外へ出てしまう」という意味あいの言葉である。だから英語の聖書はそのまま直訳している場合が多い。“out of mind”

つまり、「自分の外に出てしまう、我を忘れる、我を失う、恍惚状態になる」というような意味を表している。「外に出る」とは、主イエスの宣教活動の実態を、まさにその通りに語るものだったと言える。

おそらく主イエスは、母マリアはじめとする家族の中で、家の「大黒柱」のような存在であったことに間違いはない。三十歳過ぎ、壮年と言える年齢になるまで、家族の生計を支えてきただろう。ところがいつの頃か、ナザレの実家、父母を離れて、家出して、バプテスマのヨハネの洗礼運動、悔い改めの宣教活動に関わり、ヨハネがヘロデに捕らえられると、今度は、自ら弟子たちを集め、「神の国」の宣教活動を始めてしまった。家出したまま帰って来ないのである。まったく家族の生活のことを顧みず、自分たち身内のことを忘れて、他の大勢の病人を癒し、貧しい人のケアをし、罪人どもの仲間となって、つまり他人のことばかり面倒見て、神の国の宣教をしている、いわば「神の国は近づいた」、主イエスと共に、神の国は向こうからやって来たのである。他方、視点を変えれば、家族にとっては、まさに「エクスターシス」だ、「出て行った者、はずれ者」だというのである。

但し、家族の者たちは、主イエスの宣教そのものを「おかしい、気が変だ」と考えたのではないだろう。そんな「宣教活動」のような胡散臭い仕事ではなく、もっと手堅い大工として働いてほしい、という訳ではない。当時、宗教活動をする者たち、例えば律法学者とかがわんさかといて、方々で人々に教えを垂れているのである。だが、どうせするなら、ナザレの自分の家を根城に、そこに腰を据えて、皆が集まって来るような営業をしたらよいではないか、というのである。家族の者たちにとって、家出して、自分の方から出向いて行って、赤の他人を尋ねて巡回する、という振る舞いをなぜおまえはするのか、どうしても理解できなかったのである。

今日のテキストの要は、「身内の無理解」という点にある。マルコは、主イエスの身近にいた人々の無理解という神学的主張を、福音書を通して底流のように語るのである。今日の段落には、身内の人々の無理解に続いて、今度は「律法学者(ラビ)」の無理解が語られている。主イエスが行う癒しのわざを、「ベルゼブルの力」だと言い立てるのである。悪口を言おうとするなら、何でも難癖は付けられるものである。そもそも律法学者(ラビ)とは、主イエスの同業者で、神の言葉を人々に教え、その真心を伝える仕事である。そうした主イエスと身近なところにいた人々が、主イエスのことにまったく無理解なのである

確かに生活を一にする家族や近親は、世間には知られないプライベートな身内の様子を、いつも目の当たりにして生きることになる。だから内と外との落差に、「つまづく」ということが起こる。あるいは「自分のことは棚に上げて」とか、良い所は見えず、悪いところばかりが目に付く、ということにもなる。「相手の目の塵は見えるのに、自分の目の梁には、気づかない」のである。ところがマルコは、確かに主イエスの家族、身内の無理解を語り、同業者であるファリサイ派の人々の無理解を語り、ついには宣教活動の中で最も近しい場所にいた弟子たちの無理解を、強調するのである。主イエスの近くに居た人々は、皆、主イエスのことを「誰であるのか、まったく分かっていなかった」というのである。そして今の私たちにも、行間に問いかけているのである。「あなたにとって、彼、ナザレの人は誰なのか」。

皆さんは「分からない」とか「無理解」とかが、どうして起こると思うか。知識がない、浅くしか考えていない。本気で、向き合っていない、努力が足りない、どれも正解だろうが、最も根本に横たわる問題は、「事柄」そのものから目を反らしてしまうから、ではないのか。「事柄」そのものを見ようとしない、すると「無理解」が起こるものであるということだ。今まで散々病に苦しんで来た人が、主イエスによって癒された、それを知って、「これまで辛かったねえ、治ってよかったねえ」と素直に喜ぶことはできないのか。事柄によって判断する、受け止めるとは、そういう態度のことである。教会で、誰かが重い病に罹り、あるいは試練に打ちひしがれている人がいる、すると、皆の元気がなくなる。そしてその人々が恢復する、元気を取り戻す、とその当人ばかりか、他の皆も元気を回復する、ということがしばしば起こる。それは、教会が「事柄」そのものを受け止めるからなのである。規則や手続き、慣例云々をいう前に、悲しみや喜び、嘆きや赦し、人間には本来、負い切れない、「事柄」そのものを何とか受け止めようと、祈り、分かち合おうとするからである。

マルコの主張することも同じである。身内の人、身近にいた人々は、主イエスを理解しなかった、分からなかった、それは「事柄」を見ようとしなかったからだ、というのである。ではそもそも主イエスの「事柄」とは何か。それは「十字架」である。病む人を癒し、罪人に赦しを宣言し、しかもその宣言たるや、「すべて赦される」という掛値ないものであった。そういう大それた宣言は、どこから来るのか。貧しい人々と共に食事をし、神の国の福音を伝えるという、主イエスの日々の働きが行き着く先は、まさに十字架に架かり血を流されることであった。そのようにして神の赦しの愛が、すべての人の人生に表される。主イエスの歩みを、十字架という事柄から見ないならば、主イエスのまことを知ることはできない。

ジャクソン師のスピーチ、”I am Somebody(わたしは誰かだ)“はこう続く、「私の服は違う、私の顔は違う、私の髪は違う、しかし私は何者かだ。私は黒人、褐色人種、あるいは白人。私は違う言語を話す/が、私は尊重され、守られ、決して拒絶されてはならない。私は神の子なのだ!」。

私たちは、本当のところ、自分が誰であるかを知らない。どこに真の価値があり、どこに私のかけがえのなさがあるのか、分からないままに生きて、死んで行く。しかしその私たちひとり一人に、主イエスは宣言されたのである。「あなたは神の愛される子どもだ、神の子である」と。そして神の国はあなたがたのものである、とまで言われた。誰であろうと、どこに住もうと、どんな言葉でくらそうと、主イエスの十字架から排除され、投げ出されてしまう者はない。その十字架から目を背ける時に、わたしは誰でもなくなってしまうであろうし、人間がまともに見えなくなってしまうのではないか。