「どなたなのだろう」マルコによる福音書4章35~41節

今週18日は「灰の水曜日」、今年の受難節を迎える。40日余りの主の十字架の道行きを深く心に留める期間である。「すべてのわざには時がある」と語った旧約の知者の言葉を思い起こしつつ、この主の十字架の時にふさわしい生活を過ごしたい。冬から春に季節が移る、その移り変わりと軸を合わせるように、レントの時は巡って来る、これもまた十字架の死から復活に至る「神の備える時」を深く顧みさせる舞台装置となっているだろう。

6月10日の「時の記念日」にちなみ、生活者に時間についての意識や実態を探る調査を2017年から実施し、毎年『時間白書』として発表しているこの国の時計メーカーがある(セイコー・グループ)。「人それぞれの豊かな時、自分らしい時間の過ごし方を願う」という社の理念に基づき、2025年問題が到来した今年は「長寿化による人生100年時代における時間の多様性」、浸透著しい「タイムパフォーマンス(タイパ)とAI活用」について探る、と調査の趣旨を提示している。

調査の総括として「2025年現在の時間感覚(定点観測)」について、以下のように記している。「64.0%が『時間に追われ』、56.9%が『1日24時間では足りない』。現在の生活を表す言葉、3年連続『ばたばた』が第1位。1時間の価値を金銭で換算すると、オンタイム4,780円、オフタイム12,727円。自分の心情を最もよく表す言葉は、2年連続『イライラ』がトップ、『ぼうっと』も同率1位」。「イライラ」と「ぼうっと」は矛盾する心情感覚のように思えるが、実はその底で密接に繋がっている感情であるという。皆さんの心情の表現では、どんな言葉がふさわしいか。

さて、今日の聖書個所はマルコによる福音書4章の最後の段落である。マルコ福音書は、主イエスの語られたいわゆる「たとえ話」ばかりでなく、そこに記されている物語、奇跡物語、論争物語、あるいは受難物語のすべて、まさに福音書全体が、「喩」として記されているような節がある。古代の文学というものは、イソップ物語が典型のように、「たとえ」のような手法で語られる場合が多い。皆さんの知っている昔話を想い出して欲しい。今日の個所など、まさにそれを証ししているような記述である。主イエスは弟子たちに語られる、「向こう岸に渡ろう」。今、一行は、カファルナウム辺り、ガリラヤ湖の畔にいる。丁度、湖の北端に位置していることになる。そこから船に乗って南下しようというのである。どこに向かうのか、次章では「ゲラサ人の地方」に行くのだという。聖書の巻末等の「新約時代のパレスチナ地図」で確認すると、そこは湖から大分離れた内陸部、「デカポリス」に位置することが理解される。するとすぐに疑問が生じる。そもそもそこに「舟で行く必要はあるのか」。

「急がば回れ」という諺がある。その語源は、「もののふの矢橋の船は速けれど急がば回れ瀬田の長橋」という歌が元で、室町時代の武士が、近江(滋賀県)から京都へ向かう際、琵琶湖を船で渡る「矢橋の渡し」が距離は短いものの「比叡おろし」が吹き荒れることがあり危険だったため、遠回りでも瀬田の唐橋(陸路)を通ったという実体験に基づくという。車で遠方に行く時に、高速道路を使うことがある。もちろん早く着きたいからである。ところが目的地が高速道路から遥か離れている場合、高い料金を払ってわざわざ乗る価値はあるのか。高速道路はしばしば渋滞を起こす、却って下の道よりも時間がかかる場合がある。ガリラヤ湖を船で縦断するのも同様である。対岸に着いて船を降りてから、5倍ほどの道のりを、徒歩で歩かなければならない。まして夜、嵐が起これば海上では難儀をする。なぜ敢えて「向こう岸に渡ろう」と主は言われるのだろうか。

多くの聖書学者が「マルコはパレスチナの地理がよく分かっていない」と指摘し、そこから著者はユダヤ人であったとしても、パレスチナから遠く離れたヘレニズムの異邦人教会に属する知識人であったろうと推測する。確かに普通ならば、こんな旅の道のりを取ろうとする人はいないだろう。しかし、ここで著者は「たとえ話」のように、この物語を語ろうとしている、という見方に立てば、不正確の記述に得心できるのではないか。要は「向こう岸へ渡ろう」という主のみ言葉が重要なのである。初代教会に於いて「舟(船)」は「教会」の比喩である。「他の船も一緒に行った」という記述から、地域に家の教会が点在していた様子がうかがえる。「大船に乗ったつもりで」なら良いのだが、生憎、最初の教会は「小さな舟」に過ぎない。嵐に弄ばれ、波に翻弄される。そのように教会はこの世の嵐に弄ばれ、この世の大波に翻弄されるのである。しかも、その小さな舟は、大胆にも、無謀にも、「向こう岸」に向かって湖のも中に漕ぎ出すのである。なぜそんな大変な船出をするのか。それはひとえに「向こう岸へ渡ろう」と主が言われるからである。自分たち人間のコンパスや推進力、舵を操って、漕ぎ出すのではない。ただ主のみ言葉のみに押し出される舟こそが、教会なのである。

「向こう岸」とはどこか。そこはゲラサ人の地、デカポリス地方である。この地方は「デカポリス(十の町々)という名前の通り、十ものギリシャの植民都市が作られた土地であり、パウロが復活のイエスにお会いしたダマスコ(現シリアの首都ダマスカス)や現ヨルダン王国の首都アンマン等、今に現存する町々も多い。つまり「向こう岸」とは、異邦の地、異質な場所、知られざる地のことである。この国に「お彼岸」という言葉がある。死者の行く世界のことだが、本来、それは「向こう岸」を意味する言葉である。異界と言っても良い場所が、主イエスの行けと命じられる「向こう岸」なのである。

このマルコが伝える物語は、初代教会の人々が体験した教会の歩みを、巧みに語るたとえ話なのだろう。世界の片隅のようなユダヤ、それも辺境のガリラヤ地方から始まった主イエスの宣教活動である。ガリラヤの周辺だけで活動がなされていたなら、狭いながらも楽しい我が家の如く、安心、安穏とした日々を過ごすことができたかもしれない。ところが主イエスは、「向こう岸へ渡ろう」と弟子たちに語られ、異邦人の地、足を踏み入れたこともない土地に出て行かれた。そして最後にはエルサレムへと歩みを進められ、十字架に付かれたのである。それですべてが終わったかに見えた。主イエスと共に歩んだ長い長い旅も、ついに終点を迎えたかに思えた。しかしよみがえりの主は、弟子たちを前に、再び告げるのである。「向こう岸へ渡ろう」。そうして再び教会の旅が始まるのである。はるかトルコ、ギリシャ、ローマという遥かな「向こう岸」へと。

「『タイパ』は仕事や家事など『何かをやらなくてはいけない』場面においてのみ重視されるのだと思っていたが、分析によると、タイパテクニックで生まれた時間を趣味や勉強や“何もしないで過ごすこと”に充てたいと考える人が多いそうだ。さして興味の無い動画を倍速再生し、その結果『好きな動画をのんびり観られてうれしい』というのは何だか腑に落ちない話だが、せっかく捻出した時間を使ってただただボーッとするというのはさらにシュールな状況だ。私などは気づかぬうちにボーッとしていることが多々あるのだが、忙しい人はわざわざスイッチを入れないと(切らないと)ボーッとすることも許されないのだろうか。切ない。切ないと言えば、タイパを重視する行動に『睡眠』が多く選ばれた一方、空いた時間でやりたいことの1位も『睡眠』という結果が出ているそうだ。(KEIO MCC夕学レポート2023年12月11日)

「主の眠り」によって私時間が支えられている。心理学者の川合隼雄氏の言葉では「イライラは自分の見通しのなさを示している」と語り、「イライラは、自分の中の何か―多くの場合、何らかの欠点にかかわること―を見出すのを防ぐために相手に対する攻撃として出てくることが多い(その人が自分の負の実像の鏡となっているような時に、いらいらする)」と説明し、さらに「思い通りにならないことこそ、ほんとうにおもしろいことだと思っているんです」という(『心の処方箋』)。

「大嵐の中」、大揺れの小舟の中にぐっすりと眠る主イエスを見て、弟子たちは「わたしたちがどうなっても構わないのですか」とイライラして叫び、さらに「この方はどなたなのだろう」といぶかしんだという。おのれの信のなさを、主イエスの睡眠によってあらわにされ、危機の中での主の眠りに、神の安息の姿を知らされたのである。話の緒の「時間白書」にも「タイパを重視する行動に『睡眠』が多く選ばれた一方、空いた時間でやりたいことの1位も『睡眠』という結果が出ている」という。「ぐっすりと眠ること」こそ、現在の私たちの一番の必要であり、願いでもある、換言すれば「祈り」なのである。祈りというとすぐに私たちは、何かをすること、と考えがちであるが、何もしないでただゆったりとそこに横たわることが、神の大きな恵みに対する応答であることを思わされる。それこそが宣教の本質でもあろう。「向こう岸へ渡ろう」、どこに行くともしれない不安な道のり中で、その只中に、ぐっすり眠られる主の安息がある。

受難節「レント」は、「春」を意味するゲルマン語に発するという。一挙に春にはならない、行きつ戻りつしながら季節は移る。「3月はライオンのように来たり、小羊のように去って行く」という諺も伝えられる。十字架で苦しむ主は、嵐の中の小舟にぐっすりと眠られる安息の主でもある。この時に、主の苦しみと安息に、私たちはあづかるのである。