先週の水曜日から今年の「受難節」を迎えた。40日余りの主イエスの十字架の苦しみを偲び、自らも悔い改めの心を涵養するための日々を送る期間である。そのために古来より、この期間に断食を守る習慣が教会では定着した。とは言え、全く食事をしないという訳にはいかないから、節食、一日の食事を一回だけにする、という方法が取られた。ところが、この習慣は、歴史的に信仰以前の必然があったようだ。「レント」は古代ゲルマン語で「春」を意味し、冬から春に季節が移り替わる時期である。冬眠して冬を乗り切る野生動物と異なり、人は冬ごもりのための食糧を蓄えて厳しい季節に対処する。しかしこの時期になると備蓄食料もだんだん底をついて来て、春の小麦の収穫時期まで、耐乏生活を余儀なくされる。つまり春を迎える前の「断食」は、好むと好まざるとを問わず強いられるのである。理念や思想、信条よりも「生活」に支配されるのが人間の営みである。現代人は古代よりも豊かな時代を生きているように思えるのに、「生活」の支配がより重くのしかかっているように感じられるのは、実に皮肉なことだ。
17世紀のドイツ(バイエルン)のパウラナー修道会の修道士たちは、固形物の摂取が禁じられる断食期間を乗り切るため、栄養価の高いドッペルボック(Doppelbock)という強いビールを醸造した。これは「液体のパン」とも称され、空腹を満たし活力を維持するための主要なエネルギー源になったという。修道院は禁欲を旨とする場所であるが、ビールやワインなど上質の酒を生み出す文化的拠点でもあった。
伝説によれば、修道士たちがこのビールを断食中に飲んでよいか議論となり、教皇に許可を求めた際に、遥か遠いバチカンまで現物を届けることとなった。ところが長い旅路の輸送中にビールは劣化し、これを試飲した教皇が「これほど不味いものを飲むのは苦行(試練)である」として許可を与えたと言われている。これも天の配剤か。
「受難節(レント)」の第一聖日の聖書日課は、伝統的に、共観福音書それぞれに記される「荒れ野の誘惑」の物語が読まれることになっている。なぜこの個所が読まれるかと言えば、物語が「40日40夜の出来事」として伝えられるからである。初代教会において、復活祭にバプテスマを受けようとする洗礼志願者は、一定の期間、毎日教会に集まり、講話を聞き、悪霊祓いの式にあずかり、断食、節制に努めていた。この習慣が後には信徒たちにも広がり、四旬節の40日間の節制(断食)に発展したのである。この期間を過ごすに当たり、その始まりの日にふさわしいテキストとして見なされたことは当然であろう。主イエスは宣教に先立って、荒れ野で試みに会われたのであるから、私たちも受難節において、断食をし、節制しつつ過ごそう。主のみ苦しみを心深く覚え、私たちもまた主のみわざを追体験するのである。
「四旬節(40日間)」という期間は、主に宗教、特にキリスト教やユダヤ教の文脈において、「試練」「準備」「浄化」「完了」を象徴する重要な数字とされている。単なる時間的な長さだけでなく、霊的、精神的な成長、変化や新しい段階への移行を意味する神聖な期間として目されている。特にこの時期は、自然もまた冬から春へ季節が移り変わっていくが、荒々しく、また穏やかに、行きつ戻りつするような塩梅で、季節の変化が生じるのである。40日という期間は、自然のサイクルの中で、人間が体得した生活体験に裏打ちされた一まとまりの流れなのだろう。
さて、各共観福音書に記される「荒れ野の誘惑」の物語は、どうやら2つの形態で教会に伝承されて来たようだ。ひとつはマタイ、ルカ福音書の記事のように、主イエスと悪魔との詳しいやり取りが記されている伝承、「人はパンだけで生きるものではない」という有名なみ言葉がある。もうひとつはマルコ福音書のような、非常に短い伝承である。但し、初めにマルコの記事が先にあり、それが後にマタイ、ルカの記事のように、詳しく敷衍されたというのでもないだろう。やはりこれら2つの伝承には、最初からそれぞれ別々の意図やメッセージが込められていたと言える。
マルコの伝承の独自性は、荒れ野の40日間がそのまま「悪魔の試み」の期間として位置付けられていることである。他の福音書では、「40日40夜断食をし、空腹になられた、するとサタン(悪魔)がやって来て主を試みた」という風に記される。断食の間は、それもまあ苦しい試練には違いないが、それよりも大変だったのは、悪魔との戦いなのだ、という具合に、読みようによっては、断食なんぞ、試練の内には入らない、というかの如きである。ところがマルコでは13節「イエスは四十日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた」と記される。荒れ野での生活そのものが、悪魔の誘惑であった、というのである。何も脅威的で挑戦的な圧迫はないけれども、私たちの生活は、常に誘惑だらけだ、と主張しているかのようだ。
「誘惑」ということについてこういう文章を読んだ。「誘惑に打ち勝つ方法を知ってる?誘惑に打つ勝つ方法、そんなのがあったら、ぜひ教えてほしいですけど…。実はアメリカのデューク大学で行われた実験で、『誘惑に打ち勝つためのベストな方法』が調査されたことがあったという。実験者は132名の学生を対象にして、魅力的な誘惑を前にして作業をさせた。学生にとっては、結構、地獄みたいな実験。で、その際に、誘惑に負けないように、色々な方法が試された。誘惑に負けそうなときに、別のことを思考して、気を紛らわせるようにする。誘惑に勝った回数などを記録につけさせる。意思を強く持つように繰り返すなどなど…。すると、一番誘惑に打ち勝った最強の方法が、一つだけ判明した」(ゆうメンタルクリニック「コラム」)。こう言われると「誘惑に打ち勝つ最強の方法」を知りたくなるのではないか。それについては後述する。
マルコ福音書の記述の特徴は、この短いパラグラフ(伝承)の中に、いくつもの登場人物?が配置されていることである。それらの登場人物は、特に目ぼしい活発な動きをするわけではないが、そこ、つまり「荒れ野」という舞台に、静かに置かれているといった風情である。もちろん主イエスが主役であるが、それを取り巻くように、「サタン(悪魔)」がおり、主を誘惑し、さらにその舞台たる荒れ野には、「野獣」がおり、「天使」が仕えているという構成である。そしてこのドラマの中で、最も活発に大きな動きを見せているのは、「霊(聖霊)」である。そもそも主イエスが荒れ野に赴いたのは、自分の意志や決断ではない。「“霊”は主イエスを荒れ野に送り出した」と記されるが、「送り出す」と訳される用語は、多くの翻訳者が「追いやる」と訳しているように、「追いやる」「投げ出す」というような非常に激しく強い意味合いの言葉である。ここから「聖霊はイエスを訓練するために、彼を荒野に放り出し給うた。獅子がその子を千仭(せんじん)の穴に投ずるがごとくである。大なる使命を帯ぶる者は誘惑もまた大きい」(黒崎幸吉)などと勢い込んで解釈する学者もいる。大方の偉人伝や英雄伝では、このような「厳しい試練を乗り越えて、破れそうになるその末に」的な記述が通例ではあるが、それをあまりに美化し拡大解釈する必要はないだろう。
「荒れ野」へと追いやられる、人生の道のりにおいて、「荒れ野」をまったく経験しない者はいないだろう。いつでも平穏、安全な平らな道だけを歩むことはできない。石ころにつまづき、道のくぼみに足を取られ、くるぶしを捻挫したり、時にもんどりうって、かすり傷ばかりか骨折することも、珍しくない。さらに生きる時には誰でも(主イエスも)、否が応でも、誘惑にさらされるのである。サタンから誘惑されるとはいうものの、結局、その誘惑の絶えない人生の道を歩いてゆくのはサタンではなく、当の本人、自分自身なのである。それなのに「こんなはずではなかった、だまされた、ひと時の気の迷いだった」と言っても始まらない。そしてサタンばかりではない、荒れ野には「野獣」が住んでおり、そこを行き来する者を獲物のように虎視眈々と狙っているのである。
前述の話題、「誘惑に打ち勝つ唯一の方法」とは、何か。「誘惑のある環境を避けて、誘惑を目の前に置かない、というのが一番効果的な作戦だった。面白いよね。誘惑を目の前にしたら、実はもう何をしてもムダで、結局みんな誘惑に負けちゃう。だったら、最初から誘惑を目の前に置かない、というのがベストだというわけよ。それって…人間の忍耐力の敗北ということですか…」。
主イエスを荒れ野に追いやったのは、実に「聖霊」であることに注目したい。ここには主イエスの公生涯の歩みが、凝縮されている。主イエスは、聖霊に導かれるままに、荒れ野に追いやられた。そして「荒れ野」の行きつく先は、「十字架」なのである。マルコ福音書は最初から、十字架の道という主イエスおひとりで忍ばれた大きな試練を暗に語ろうとしている。イエスは聖霊、神の力に押し出されて、私たちの悩みと悲しみが道、罪と咎の渦巻くところ、荒れ野に追いやられるように、聖霊によって投げ出されたのである。そんなにしてまでも、神は救い主を私たちの世界に、送ってくださったのである。その主が、荒れ野で悪魔からの誘惑に打ち勝ってくださった、と聖書は告げる。「誘惑のある環境を避けて、誘惑を目の前に置かない」というのには、限界があろう。素より悪魔の誘いに弱い私たちである。勝てる見込みは到底ないが、十字架の主がおられる。目の前に十字架の主を置いて、この時を過ごすより他ないのである。