ヨハネの黙示録11章は、世界の人々に良く知られた有名な文言がある。それは、数多ある音楽作品の中でも、非常に有名なある歌、その歌の歌詞が、この個所から取られたからである。ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデル(1685~1759年)の代表作、オラトリオ(聖譚曲)『メサイア(救世主)』、この作品は、一部、二部、三部構成であり,演奏時間は総150分以上に及ぶ。ヘンデルはこの大曲の楽譜を1741年8月22日から9月14日までのわずか24日間で書き上げている。このときヘンデルは“何かに取り憑かれたかのように”一気に曲を完成させ、途中、涙を流しながら筆を進める姿を召使いが目撃したという逸話も伝えられている。オラトリオの劇場公演に批判があったこともあり、「メサイア」は慈善演奏会として初演を迎えた。結果は大成功で、聴衆700人を集め、400ポンドに上る収益金は、病院や救済団体に寄付された、という。その後も、親を亡くした子どもたちのための施設を援助する演奏会など、チャリティーとして世に広まった。
「メサイア」は、この作品中の52曲の内で、最もよく知られ、クリスチャンでなくても聞き覚え、一節だけなら誰でも口ずさめるという曲が、第二部の終曲、「ハレルヤ」コーラスである。そこで歌われる歌詞は、今日の聖書個所の15節から取られている。「この世の国は、我らの主と、そのメシアのものとなった。主は世々限りなく統治される。」長大な楽曲の中で、この曲が演奏される時には聴衆は起立して聴く、という伝統的趣向がある。それはこの曲がロンドンで初演された際、臨席していた国王ジョージ2世が、なぜかこのコーラスの時に「立ち上がった」からだというのである。「あまりに曲が素晴らしくて、思わず立ち上がってしまった」と伝えられるが、さもありなんとは感じられる。
黙示録の著者は、当時の演劇、芝居の構成を念頭に、この著作を記していると思われる。ヘレニズム世界において、スタディアムでの競技観戦と並んで、演劇鑑賞は、大きな娯楽であった。この地方の古代遺跡には、劇場跡が数多く発掘されているが、その規模の大きさや音響への工夫等、現代人の目をも見張らせるものがある。
古代の演劇も、現代劇の演出と同様に、ただ芝居そのものが上演される訳ではない。芝居の始まる前は、聴衆の興味、関心、期待を高めるために、「前奏曲」が演奏され、その後、舞台の幕が開き、劇が演じられる。そして第一幕、第二幕、という具合に芝居が展開されていくが、幕間には間奏曲として、再び楽が奏され、歌手によってコーラスが奏でられ、変化をつけて観客の耳目を楽しませる工夫をするのである。
今日の個所は、14節「第二の災いが過ぎ去った。見よ、第三の災いが速やかにやって来る」という台詞(ナレーション)の後に続くパラグラフである。黙示録には3度にわたる「災い」が語られるが、それぞれの災厄が「ひと幕」、つまり舞台で演じられる「芝居」に相当し、今日の個所は、その幕間に奏でられる「コーラス」、どちらかと言えば小規模な人数による歌、という趣を持っている。それらの「災い」であるが、8章に記される第一のものは、「天変地異」、地震、雷、暴風、嵐、津波、小惑星の衝突といった「自然災害」、あるいは、病害虫によって生じる飢饉や、疫病の蔓延による健康被害といった「災害」を指しているようである。また9章に記される「災厄」は、戦争による甚大な被害や荒廃について語られている。これらの災厄は、古代世界ばかりでなく、現代においても、私たちの生活を直撃する脅威であり、今もなお、この世界を蝕んでいる禍である。津波被害、原発事故、異常気象による飢饉、ウイルスの蔓延、戦争の勃発等、今、私たちの日常を脅かす災厄に枚挙に暇がない。
人間の生活の営みは、襲い来る災厄にいかに対処するか、という歴史であったということができる。脅威に対抗するため、インフラが整備され、様々に安全策が工夫され、軍事的抑止のために、より強力な破壊兵器が開発され、ワクチンを始めとする医療技術の進歩に拍車が掛けられてきた。ところが、そうした進歩発展を嘲笑うかのように、脅威は去らず、却ってより強大化しているようにさえ見えるのは、実に皮肉である。
実のところ「脅威に対抗するため」という大義名分は、今もこの世界に満ち満ちている格好のいい訳である。人間たちは密かに、自分たちこそが「世界の主人」であると自負している。「脅威」に屈することは、もはや自分たちは「自然界の霊長」の座を失ってしまうことを恐れるのである。ところが、今もなお、自然の諸力は人間の力を凌駕し、そのエネルギーの前に人間はひとたまりもないのである。たとえ「大量破壊兵器」を保有し、それで誰かを威圧したとしても、いざそれを用いるなら、われとわが身をも破壊し尽くすことになるのである。
「この世の国は、我らの主と、そのメシアのものとなった。主は世々限りなく統治される。」この事実に「異邦人たちは怒り狂う」というのである。「異邦人」とは、「神を知らぬ者」という意味であるが、これを宗教的にのみ理解する必要はないだろう。現代人と言い換えても、そのまま通るように思う。誰が世界の主人なのか、誰がこの世を本当に統べ治めることができるのか。自らの十字架によって「すべてを救う」とは、人間には及びもつかないことである。
「世界は一つの舞台、人は皆その舞台でさまざまな役を演じる役者に過ぎぬ」。シェークスピアは喜劇「お気に召すまま」で登場人物にこんなふうに語らせている。それに続けて、人生という劇場は七つの時代に分かれている、とも言う。赤ん坊に小学生、恋する若者と役を変え、第4幕で扮(ふん)するのは軍人。「名誉欲に目の色変え、むやみやたらに喧嘩っ早く、大砲の筒先向けられてもなんのその、求めるのはあぶくのような功名のみ」(小田島雄志訳)。人間は自分勝手な計画を思い描き、それを正当化し、実行しようとするが、その目論見は、長い目から見れば、ことごとく外れるのである。結局は「あぶくのような功名」にとどまるだろう。「この広大な世界という舞台の上では、われわれがいま演じている場よりもはるかに悲惨な芝居が演じられているのだ」、と語るこの劇作家の慧眼をどう受け止めるのか。
間奏曲はこう歌う「御名を畏れる者には、小さな者にも大きな者にも/報い(恵み)をお与えになり、地を滅ぼす者どもを/滅ぼされる時が来ました」。地(生命あるもの)を滅ぼすことを、神はそのまま許されないのである。