あるお母さんから相談の投書があったという。「中学3年の長男には反抗期がありません。学校から帰るとその日の出来事を自分から話し、休日に家族で映画を見たりゲームセンターで遊んだりすることもあります。仲よくできてうれしいのですが、『反抗期がないと大人になってから心配』などと言われると不安になります。一人っ子で穏やかな性格だし、親としてできる限りのことをしているから不満が少ないのかもしれません。皆さんの子どもは反抗期がありましたか。反抗期がなく大人になった人の体験談も聞きたいです」。皆さんはどう思われるか。ご自身の思春期の頃、どんな様子であっただろうか。
昨今、親と子の関係に変化が生まれているといわれている。まるで同じ年頃の友達のような親子、いわゆる「友達親子」が増えたという声も聞かれる中で、実際に現代の親子関係はどのように変化しているのか。あるクリニック(医療法人社団風林会)が今年3月に16歳~23歳の「現役学生」男女600名を対象にアンケート調査(インターネット調査)を行い、親との関係や反抗期の有無、その他について調査したという。その結果、学生の2人に1人が「反抗期がなかった」と回答 (全体 48.3% / 女性 48.0%・男性 48.7%)。「反抗期がなかった」と自覚する若者が半数いることが、今回の調査で明らかになったという。
「親子の関係が変化した」とは、何が変わったというのか。子ども(兄弟姉妹)の数の変化、家庭(住)環境の変化、社会や経済状況の変化、人生観、生きる意味の理解が変化した、いろいろその要因は考えられるにしても、「仲よきことは美しき哉」ではあるが、これがこの先、何をもたらし、またどういう次の変化を及ぼして行くのだろうか。「変化できる者だけが生き残る」、と俗説でしばしば語られるのであるが。
今日の聖書個所は、ルカによる福音書の掉尾、いわばエピローグ部分である。よみがえりの主イエスの昇天でもって、この福音書は閉じられる。「絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた」、この最後の文言はうまい書き方と思う。ここからまた何かが始まる、というじわり感を読者に抱かせるからである。49節に「わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい」というこれから起こることについての謎めいた暗示と呼応して、否が応でも続きを早く読みたい、との期待感を盛り上げるのに効果的である。ルカは巧みな書き手である。「主の昇天」、即ち「別離」をもって、この福音書は閉じられる。
先週の木曜日が今年の「主の昇天日」に当たっていたが、使徒信条にも「三日目に死人の内よりよみがえり、天に昇り」と告白されるように、主の「復活」と「昇天」は一体のこととして理解され、告白されて来た歴史がある。なぜ「昇天」がそれ程、強調されるのか。カトリック教会では、「主の昇天の出来事」を非常に重要なものと考えている。それについてはこのように説明される「この主の昇天の出来事はわたしたちの希望でもあります。きょうのミサ(主の昇天日)の集会祈願の中に、『主の昇天に、わたしたちの未来の姿が示されています』という言葉があります。わたしたちの歩みは肉体の死で終わる歩みではなく、死を通って最終的に神のもとに(天に)至る歩みなのです。そのことを本気で感じ、受け取ったときに、今のわたしたちにとって目の前の喜びや楽しみ、苦しみや悲しみがどのような意味を持っているかが見えてくるのではないでしょうか」。「主の昇天」という出来事は、この世における「イエスの時」の終焉、つまり主イエスが、私たち人間と同じ姿となり、私たちの世界をその足で歩み、私たちと同じく人生の時を過ごされた方が、今や別れを告げられる、そういう意味で「終り」なのである。そうした「終わり」を私たち自身も、いずれの時にか経験することになる。それが「死」である。しかしそれで終わりではない。主イエスはご自身のこの世での終わりの様子を、弟子たちにつぶさに開示された。皆の前で天に昇って行かれたように、私たちもまた、そのような主と共に、天に昇って行くであろうという希望を顕したのであると。
しかし「昇天」のもう一つの、もっと大切な意味は、「別れ、別離」である。喜怒哀楽、悲喜交々の様々な人生ドラマの中で、「別れ」ほど人間の生き方やあり方に、変化をもたらすものはないであろう。「別離とは変化である」と言っても差し支えない程である。主イエスが十字架に付けられ、三日目に復活された、その前と後では、主と弟子たちとの関わり方が変わったのである。十字架の前は、弟子たちはいつも主イエスと、いわば寝食、寝起きを共にされた、いつも共におられた。しかし復活の後ではそうではなかった。福音書を比べて読むと復活の記事の多様性に戸惑うが、よみがえりの主イエスはいろいろな時と場所、仕方で弟子たちにご自身を現されたのである。この個所の前には、復活の証明として、焼き魚をほお張られている。しかしその出会いは一時のことで、すぐに去って行く、あるいは姿が見えなくなったと伝えられるのである。復活した主イエスとの交わりは、十字架以前の、いつも生活を共にするというものではもはやない。44節「まだあなたがたと一緒にいたころ」という言葉は、そういう変化が起こっていること、そして昇天によって、それが決定的なものとなる、とルカは福音書を閉じるにあたって後書きの様に記すのである。
この復活後の主イエスと弟子たちとの関係は、私たちが今与えられている主イエスとの関わりに近いものだとつくづくと感じさせられる。私たちも、目に見えるような仕方でいつも主イエスと共にいることはできない。かつての弟子たちのように寝食を共にするような仕方で、主イエスに従っていくことは私たちにはできないのである。十字架の前と後、主はご自身の苦難、十字架の歩みを、前もって弟子たちに繰り返し語っておられた。弟子たちはそれを本当に理解することができず、全くそれが何を意味するのかすら分からなかったのである。教会は、主イエスのご受難を「十字架の贖い」という概念によって説明するのだが、そこに流れる主との別離、それを通して生まれる関係の「変化」については、あまり深く語って来なかったように思う。
子どもが誕生し、成長してゆく中で、親は子どもの変化を目にして行くことになる。最初は、母親と赤ん坊は一体である。片時も離れることが無い、だから母親にとっては、それこそ24時間、寝食を共にする大変な時である。しかしやがて子どもは親からの距離を持つようになる。壁の向こう、カーテンの陰にひとりで座って、ひとり遊んだり悪戯をしたり、隠れて何やらするようになる。親の目の届かない所で過ごすようになる。育児書で知られるある医師(松田道雄氏)は、「親の目に隠れて子どもはこころを創っている」と見抜いている。親離れ、子離れ、「別離」の始まりであるが、これを通して成長という「変化」がもたらされるのである。
主イエスとの別れによって、弟子たちに変化がもたらされる。「『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる」。神の国の宣教は、今まで、もっぱら主イエスの働きによってなされたのである。そして今は、主イエスの「別離」によって、弟子たちの手により口により、なされて行くのである。
新共同訳で「心の目を開いて」と訳されているが、原文に「目」という言葉はなく、直訳すれば「心を開いて」である。もはや目で見てそれで確かであると確信するというのではない、心を開くことが一番の問題なのである。もはや肉の目で主イエスを見ることのない時代を生きていく弟子たち、そして私たちである。子どもはひとり親から離れてこころを創る、と言われるように、私たちの心が開かれることが肝要である。心が開けば、別の世界が見えて来るものである。心が開けば、非情で悲惨に満ちているこの世界の中にも、神の愛が息づいているのを知るであろう。但し、人はたやすく自分で心を閉ざすが、自分から進んでこころを開くのは、得意でなく、得てして困難である。
反抗期のない子どもについての相談に、あるお母さんから応答がなされたという。「息子2人には反抗期がありませんでした。愛犬の存在が大きかったです。帰宅すると玄関にいる愛犬に、その日の嫌なことや悲しいことを長時間打ち明けていました。じーっと聞いてもらえるので、親がいる居間に入るまでにはストレスが消えたようです。2人とも穏やかな性格のまま社会人になりました」。犬に訴えることで、ストレスを解消するというのは、遠藤周作氏の幼少時代の想い出と重なる。氏はあの犬の黒い目が、主イエスの瞳と重なると言う。変化のためには、どこかにほんとうに向き合うものが必要なのである。
「わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る」主イエスが遺言として語られたのは、聖霊を送るという約束である。これは、使徒言行録第2章のペンテコステの出来事、弟子たちに聖霊が降り、彼らが高い所からの力、つまり神様の力に満たされて、主イエスの証人として語り始めた、それによって教会が誕生した、ことへの伏線となっている。復活した主イエスが天に上げられ、肉の目には見えない方となられることによって新しい時代が始まった。それは、目に見えない主イエスを信じて生きるという変化である。その新しい時代に、信仰者と共にあり、その歩みを支え導いて下さるのは、目に見えない聖霊なのである。見えないものによって、人は最も大きく変化するのである。