「しばらくすると2」ヨハネによる福音書16章12-24節

学生時代、大阪で暮らし始めて間もなくの頃、まったく右も左もわからず、道に迷い、立ち往生している時に、通りがかりのまったく見知らぬおっちゃんが声を掛けてくれ、親切にも、おせっかいかもしれないが、道を教えてくれるという経験を何度がした。ただその教え方に驚かされた憶えがある。「この道ブワーッと行って、グワーッと曲がって、でっかいビル、ボワーンと立ってるから、その角シュッと曲がんねん」。その人の教え方「ブワーッ、グワーッ、ボワーン、シュッ」というような大仰な表現に、驚かされたのである。そう教えられると、何となく確かにそこに行けそうだ、大丈夫だと感じた。この経験が、新しい土地に住むことの何かしらの安心感を与えられたように思う。

最近、政府が2万人を対象に、ある実態調査が実施され、その結果が今月公表された。孤独・孤立に関する初の実態調査で、孤独感が「ある」と答えた人が、約4割に達し、年代別には、高齢者より20代、30代に多いことが分かった。地方から上京し、大学の授業はオンラインばかりで友人ができず、実家にも帰れない。心身の不調をインターネットで検索して自己診断し、さらに不安を募らせる、SNSで相談に応じているNPO法人には、コロナ禍が拡大したこの2年で、こうした学生からの相談が増えているという。

一方で、孤独を感じる人が最も少なかったのは70代。社会学者の上野千鶴子さんは、「高齢者の独居イコール社会問題のような描き方が多いが(中略)おひとりさまで機嫌よく暮らしているお年寄りがあそこにもここにもいる」と指摘している。ある医師はこう語る、「孤独を感じるときって、一人のときじゃないのよ。可能性がなくなって、閉塞感を感じるときなの。だから一人でいたほうが、孤独を感じないときもある」。孤独感は、一人の時より却って大勢の人の中で、強く感じるものだという。

さて、ペンテコステ(聖霊降臨)の直前、復活から40日後、復活された主イエスは、弟子たちの下を離れて、天に上られた。目に見える姿では、弟子たちと離れ離れ、分かれ分かれになったのである。これまで親しくふれ合って来た誰かと、別離をするというのは、やはり悲しく、寂しい思いがつきまとうが、「親離れ、子離れ」に象徴されるような別離は、人生において、どうしても必要で大切な要件であろう。いわゆる「ソーシャル・ディスタンス」、人と人との適度な距離が、どうしても必要なのである。但し、俗説に「ライオンはわが子を千尋の谷に突き落とす」というような距離の取り方は、やはり乱暴すぎるし、それで健やかな距離が取れるのでもないだろう。「スープの冷めない距離」とはよくも言ったものだ。距離はとっても、温かなスープのおすそ分けができるほどの遠さ。しかし問題は、その適度の距離を、どのように私たちは取ることができるのだろうか。

今日の聖書個所、ヨハネによる福音書16章は、主イエスの告別説教とも遺言とも呼ばれる部分の、掉尾を飾る文言が記されている。16節「しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなる」。主イエスのお別れの言葉である。もうしばらくしたら、顔と顔とを合わせて、直に合うことはできなくなる。この主の言葉は、私たちの人生の真実な側面を語るものだろう。人と人とが出会い、顔を合わせ、喜んだり、悲しんだり、時に怒ったり憎んだりする、そうしてひとり一人の人生が形作られていく。「縁」というものは不思議なものだ。ところが人と人との出会いは、永遠ではない。いつかお別れの時はやって来る。私たちの出会いは「しばらくの間」の出来事である。主イエスと弟子たちの関係、その出会いも同様である。主イエスは弟子たちと別れて、神のみもとに上られた。私たちもいつかは知らされてはいないが、定められた時が来たならば、親しい人たちから別れる時が訪れる。しかし、主イエスによって、この時にも「希望」があるだろう。主イエスがそうだったように、私たちもまた、神のもとに上って行く、という希望である。

主イエスは不思議なことを言われる。「しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる。」、もう一度、主イエスに会うことができ、さらに20節「あなたがたは泣いて悲嘆に暮れる、あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる」と言われる。悲しみは癒されて、喜びに変わる。生きる時には、思いがけない禍や不条理によって、耐えがたい、癒され難い悲しみを背負うことがある。「四苦八苦、愛別離苦、老病死別」これらに無縁の人生はありえない。しかし、そのような別れの悲しみを、神は無関心に放ってはおかれない。人間の思い描くかたちとは異なり、思ってもみないやり方をなさる、御子を十字架に着けて、救いの道を開かれた、そういう方なのだが、私たちを悲しみから喜びへと導かれるのは、間違いはないのである。

「また見るようになる」という主の言葉を、この世の旅を終えて、神のみもとで、と理解することもできるだろう。しかしこの一連の主のみ言葉を丹念に読めば、いわゆる「天国」のことを言おうとしているのではないことが分かる。24節「今までは、あなたがたはわたしの名によっては何も願わなかった。願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる。」「主イエスの名によって、願いなさい」というのである。「主イエスの名によって」とは、もう少し言葉を加えれば「主イエスの名を呼ぶことで」とも訳せるだろう。

創世記2章で、最初の人アダムが神様から命じられたことのひとつが、神の造られたものすべてに名を付けることであった。こう記されている。19節「主なる神は、野のあらゆる獣、空のあらゆる鳥を土で形づくり、人のところへ持って来て、人がそれぞれをどう呼ぶか見ておられた。人が呼ぶと、それはすべて、生き物の名となった」。人間の最も根源的ななりわいが、「名を呼ぶ」ことである、という考え方は興味深い。子どもが生まれた時に、親はその子に名前を付ける。名前がないところでは、存在があいまいになるのである。人

間を殺すことを命じられる兵士は、相手の名前を知らないからこそ、非情にふるまえる。もし相手のことをよく知っていたなら、つまり「名前」を知っていたなら、引き金を引くことはできないだろう。

話の最初に、大阪のおっちゃんの「道案内」のやり方について、話した。「ブワーッ、グワーッ、ボワーン、シュッ」、これらはオノマトペと呼ばれる。フランス語で「名を呼ぶ」という意味である。元々は今日の個所「わたしの名(オノマ)」というギリシャ語から来ている用語である。目に見えないもの、あやふやなもの、つかみどころがないものでも、それにふさわしい名を呼べば、しっかりと心に受け止めることができる。名を呼ぶことで、そのものの生命と存在とが、しっかと立ち上がる。真実に生きたものとなって、わたしを関わってくるのである。もし名を呼ばなければ、そのものとは何の関係もなくなる。

夫婦でも、親子でも、「呼び合う」「呼ぶ」ということは、「今のあなたを必要としている」ことの表明である。そして「呼ばれる」ということは、いわば、その人から愛されているということである。だから私たちが「呼び合う、応答する、responsibility」する行為は、非常に尊い行為であると言えるだろう。「呼んで、呼ばれて」、それで関わりが深まって行く。「呼んで、呼ばれて」親子になっていく。「呼んで、呼ばれて」夫婦になっていく。しかし「呼び合う」というこの尊い行為を、私たちは神さまとの間で、繰り返しながら生きているのである、意識しようとしまいと。見えないが、確かに私たちの呼びかけに答えてくださる方がいることを、知らされるのである。しかし先に呼ぶのは、私たちの方からではなく、主イエスの側からであろう。ちょうど、生まれた子どもに、お母さんが呼びかけるように、まず、親が子どもを呼ぶ。ここから人生の歩みが方向付けられる。そのように、主イエスがあなたの名を呼んで、招いてくださるのである。だから私も主イエスの名を呼ぶのである。主イエスは私たちに、「あなた方をみなしごにはしない」と言われた。主のみ名を呼べば、必ず答えくださるのである。