祈祷会・聖書の学び ヨハネの黙示録14章14~20節

毎年、この国で12月の第一日曜に、大阪城ホールで行われる催しがある。1983年から、大阪城築城400年祭の一環で始められたという。「一万人の第九」、要は一万人の大合唱団を構成し、「喜びの歌」を歌おう、という訳である。参加費大人ひとり一万円弱、抽選により参加できるとのことである。しかし一万人だと、歌う人の方が、聴く人よりも多いのではないかと案じる。さぞかし大きな歌声であろう。但しギネスブックの記録によれば、それ以上の人数による大合唱があるらしい。「映画『Disney’sクリスマス・キャロル』のワールド・プレミアがロンドンで開催された際に、市内4か所に過去の「クリスマス・キャロル」合唱人数記録7,500人をはるかに上回る14,100人の市民聖歌隊が集まり、ギネスブックに認定された」と外電は伝えている。

今日の個所は、「天上の大合唱」の記事である。但し、黙示録の合唱団の人数は破格である。14万4千人の合唱だという。ギネスブックの10倍の人数である。この数は、7章に掲げられている「額に刻印を押された真のイスラエルの子ら」の総数に相当する。一部族当たり一万二千人、その12倍である。この大合唱は何のことか。

黙示録は、13章の記述がクライマックスである。「赤い竜」が自らの権威を「二匹の獣」に与え、この獣たちは、大きな力を持って人々を支配し、人々の額に刻印を押し、己の像を拝ませた。そして像を拝まぬ、逆らう者、刻印を押さざる者は、物の売り買いもできないようにさせたという。つまり迫害の実態は「物品の売買禁止」という形でなされた、という、一種の「経済制裁」である。「迫害」というと、私たちは、遠藤周作の小説『沈黙』の拷問風景を思い起こす。転ぶことを迫り、死ぬまで痛めつける。

ところがローマ帝国時代の迫害は、「売買の禁止」という形をとったという。これは営業の停止であり、また日用必要品の購入禁止である。これによりキリスト者は、その生活の手段を奪われてしまうのである。免職、同業者よりの排斥、家庭または故郷よりの逐い出し等は、現代でもしばしば起こる差別の実態であって、衣食住のための日用品を売買できなければ、もはや日常生活を営むこともできなくなる。こうした迫害の実情を、ヨハネは見事に描き出している。

さて、この「赤い竜」そして「二匹の獣」とは、何の黙示(暗示)だろうか。黙示録が、迫害に悩むヘレニズムの諸教会の人々を励まし、慰め、勇気づけようとする意図から記されていると考えるとすれば、答えは明白である。赤い竜、即ち「ローマ帝国」と二匹の獣即ち「二人の皇帝」である。

一方の獣には、「666」という数字が付けられている。この数字を巡って、聖書学者たちは、昔から随分の議論の時を費やしてきた。ローマ皇帝の中には、キリスト者を大迫害した人物が何人か知られている。その中で最も有名なのが、皇帝ネロである。ヘブライ文字は、数字としても利用されたから、かの皇帝のスペルの数値は「六百六十六」に相当するという。(“NRON KSR(ネロ皇帝)”のそれぞれの文字を数値化すれば“50+200+6+50+100+60+200” になるとされる)。

紀元六十八年六月に、ネロ帝は元老院より遣された刺客により暗殺された。にもかかわらず、彼はまだ生存しているとの風説が流布し、その後ネロと称して王位を窺う者がしばしば顕われ、ネロの生存復起説が一つの伝説となったという。ヨハネはこれをここに応用し、これまたキリスト者を厳しく迫害したドミティアヌス帝をもって、ネロの復活と見なして、ここにこれを暗示したのであろう。

14万4千人の合唱が轟く中、天使の言葉が全地に響く、8節「倒れた、大バビロンは倒れた。みだらな、この都が」。この1句を宣言したいがために、ヨハネは黙示録を書いている節がある。ネロ皇帝の時代は、ローマの絶頂期、爛熟期である。もはや戦うべき敵がおらず、ローマの平和の下、帝国内のすべての経済活動がローマに統括され、そこからの収益は皇帝に流れ込むようなシステムが確立している。皇帝にとって、暗殺を除けば、「恐いものは何もない」、という時代である。そしてキリスト者は、いじめ的な「経済制裁」により、地域社会から排除されている。それは即ひどい「生活苦」をもたらす。「衣食住」、日常生活への攻撃は、直接の暴力よりも、陰湿であるだろう。キリスト者への迫害は、多くは「いじめ」的な要素が強かったのである。

すると最も問題になるのは、希望が失われることである。「いじめ」が最も苦しいのは、「終わりがない」という観念である。期限や期間が定まっていれば、がまん、忍耐もできるだろう。「未来永劫」に人は耐えられない。だからキリスト者はこのみ言葉を、常に聞く必要がある「倒れた、大バビロンは倒れた。みだらな、この都が」。大バビロンとは「ローマ帝国」である。そしてその「赤い竜」のような怪物も、神の支配の下にあって、決して永遠不滅のものではない。いつか「倒れた、大バビロンは倒れた。みだらな、この都が」と人々が喜び叫ぶようになるだろう。13節はヨハネらしい、深い慰めの言葉で閉じられる。

しかし、また性懲りもなくヨハネの弟子たちが、余計な付加をしてしまった。それが14章以下、おそらく17章まで続く。18章からは「大バビロンは倒れた」喜び大合唱が再び始まり、終曲が奏でられ、華やかなエンディングとなる。

ヨハネの弟子たちは、災厄、禍を描くことが好きなようだ。再びここから災いの記述が始まる。しかもご丁寧に、また7つの災いだという。その7つの災いの導入として、収穫の幻が語られる。熟したブドウ畑に、天から鎌が投げ入れられ、ぶどうが収穫され、絞り桶に投げ入れられる。ぶどうがたわわに実り、豊かに熟し、絞り桶に入れられるときは、一年の内で一番の喜びの時である。絞り場に集まる人々によって、ぶどう絞りの歌が歌われ、新しい酒の祝いがなされる。しかしその喜びの時は、血に代わる、というのである。その血は1600スタディオンに渡って広がった、という。1スタは180メートルであるから、288キロにあたる。一説にこの距離は「パレスチナの範囲」を表すとされる。

ユダヤ戦争によって、ユダヤはローマ帝国に滅ぼされ、エルサレムはじめ国土は荒廃した。ローマの勢力は圧倒的で、向かうところ敵なしである。その絶頂(ぶどうの豊作)の中で、既に神の大鎌は大きく振るわれ、裁きが始まろうとしている。たくさんの人々の血を流した大きな罪のゆえに。言いたいことはよくわかるが、神の裁きを、災厄とすぐに結びつける感性はいかがなものか。但し、歴史は証言する「ローマ帝国は倒れた」と。