『わたしいややねん』という題名の絵本がある。縦21㎝×横15㎝程度の小さなサイズのモノクロの印刷で構成されている。文字以外は、非常に精密に描かれた車いすの絵だけで描かれている。そして姿は登場しない主人公の気持ちを、車いすの形が代弁するように、まっすぐ大阪弁で独り言のようにつぶやく簡素な文章。それらが組み合わさり、まるで車いす自体が語っているような印象を受ける。つまり普通では語れない言葉を、何とか伝えたい、聞いてほしいという心が伝わる。もう40年程前に刊行された絵本である。
作者の吉村さんは幼い頃脳性小児まひと診断され、手足に障害を抱え、以後車いす生活をされている方だという。実際の自分の経験や思い出を物語にした作品だろうが、一冊の絵本として非常にインパクトがあり、その実験的とも言える構成には唸らされる。
こんな言葉が記されている「わたし でかけるのん いややねん」、「みんな じろじろ見るから いややねん」、「わたし 宇宙人と ちがうでェ」、「くさいうんこも きいろいおしっこも でるでェ」「なんで 見なあかんのん」。段々と車いすが立ち上がり、大きくなって存在感を増してくるようだ。普段、心の奥に秘め、押し込まれている気持ちが、思わず外にあふれ出してくるようだ。
「先生が いわはった 『強い心を もちなさい 強くなりなさい』って」、「わたしが 強なったら いいんやろなあ」、「なにたべたら 強なれんねんやろ」、徐々に大きく迫ってくる車いすに、読む者は圧倒される。物言わぬ車いすが、普段、抑圧されている作者の心情を、肩代わりしていることが知らされ、作者の叫びに押しつぶされる気持ちになる。そして最後に問いかける。「そやけど なんで わたしが 強ならなあかんねんやろ―――か」。この言葉は、あらゆる人間にとって、子どもも大人も、身体が不自由であろうとなかろうと、根源的な問いかけではないのか。「そもそも人間は強くなければならないのか」、「強くなければ生きられないのか」。吉村氏があとがきで記している。「すべての人が、なんでもなく、ふつうに、快適なくらしができるような社会」、日本国憲法にも明記されているこのあり方は、人間にとって、強者しか許されない、あまりに高くて手の届かない寝言や夢物語の類なのだろうか。「車いすに語らせるしかない」ところに、最も深刻な問題の根があるということだろう。
コリント前書12章から話をする。パウロ神学の重要な論点のひとつは、「からだ」であると指摘される。パウロは信仰を「精神論」として観念的にのみ理解したのではなく、「からだ」と関わる具体的な理解をしているのだという。「復活」についても、ただ「魂」のそれではなく、「からだ」をも含めた問題なのである。今日の個所では、「からだ」としての「教会」について議論が展開されている。
この手紙の冒頭に、コリント教会内での分裂、あるいは派閥争いがあることを著者は記している。それを彼に注進した教会員がいたのだろう。この訴えに応えてパウロはこの手紙を記し書き送ったという次第である。人間が集まるところでは常態であるともいえる「分裂」や「派閥」は、教会においてもやはり避けて通れない道かもしれない。しかし、だから「仕方がない」と開き直っては、余りに教会として哀しいというべきだろうか。
「教会はひとつの体」だとパウロは言う。キリストは神のひとり子であって、人間の勝手な都合によって、いくつにも分割できるものではない。「教会はキリストの体」。ところが人間ひとり一人には皆、外的内的に個性があり違いがあり、それが人間の価値でもある。もし違いを認めず、ひとりを許さないとするなら、それは軍隊や政治結社ではあってももはや「教会」とは呼べないだろう。すると集団と個人、みんなとひとりをどう結び合せるかが、重要な課題となる。そこでパウロは「体」の喩えによって、教会のあり方を論じるのである。
「体は一つでも、多くの部分から成り、体のすべての部分の数は多くても、体は一つであるように、キリストの場合も同様である。体は、一つの部分ではなく、多くの部分から成っています。目が手に向かって『お前は要らない』とは言えず、また、頭が足に向かって『お前たちは要らない』とも言えません」。分裂と分断のさ中にあるコリント教会に、パウロは「教会はひとつの体であり、ひとり一人の信仰者は体を構成する部分(原文では「肢体、体の一部」)であり、体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合って」生きている、そうでないと生きられないのだと主張するのである。特に、この議論で、パウロの優れた感覚は22節に最も良く表されている「それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです」。
しかし「弱く見える部分が必要であり、大切にされるべき」と主張がなされると、それに対する反応として、「すべての人が、なんでもなく、ふつうに、快適なくらしができるような社会」とはいうものの、やはり「頑張った人こそが報われる社会であるべき」とか、「人間は平等であるべきと言いながら、一部の人だけが(被差別者、弱者、マイノリティ)が優遇されているのはおかしい」などという妬みに満ちた、グロテスクな考え方が生まれてくるのである。新共同訳でも、そのような意識が滑り込んでいると言ったら、言い過ぎだろうか。23節「わたしたちは、体の中でほかよりも恰好が悪いと思われる部分を覆って、もっと恰好よくしようとし、見苦しい部分をもっと見栄えよくしようとします。見栄えのよい部分には、そうする必要はありません」。即ち「格好悪い部分を覆って、格好よく」また「見苦しい部分をもっと見栄えよく」しないとだめだ、弱い部分が強くならねば、弱い人も弱いままではだめだ、というニュアンスを与えてしまうのではないか。原文に即して訳すなら「からだの中に無価値に見えるところに、私たちはますます価値を置く。私たちの中の格好悪い部分は実はよい姿を持っている。格好悪い部分に価値を置いて、体をひとつのものとするのである」。弱い部分があるからこそ、調和がもたらされる。もし強い部分だけだったら、競争だけで人間が判断されるだろう。
原文には「覆って」とか「見栄えよく」という用語は用いられていない。端的に、体の中の「弱い部分」、「恰好悪い部分」には、何の条件も付けず「価値がある」とパウロは断言するのである。25節「それで、体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っています。一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶ」。このパウロの考え方は、教会のみならず、これこそ「すべての人が、なんでもなく、ふつうに、快適なくらしができるような社会」の姿ではないか。
今日は、「平和聖日」である。ウクライナで半年になろうかという戦争の悲劇が繰り広げられている中での礼拝で、痛みの籠る複雑な心持である。この期に乗じて、「侵略に対抗する抑止力を大きくしよう、もっと強くならなければだめだ」という勇ましい声も聞こえて来る。開発途上国の立場から長く外交の第一線に身を置いてきたエジプトの元外務次官フセイン・ハリディ氏は、この国のマスコミ取材にこう語っている。「この戦争は悲劇で、まったく不要な戦いだと思います。ウクライナの街が破壊され、双方の兵士が死んでいく。この戦争に勝者はないし、戦争によってロシアとウクライナの間に横たわる問題を解決できるとは思えません。この戦争で痛みを感じるのは、長く紛争に苦しんできた『第三世界』の国々なら、なおさらです。ただ、私たちはこの戦争を欧米が言うような『ウクライナの独立や民主主義、人権を守るための戦い』だとは見ていません。2003年のイラク戦争で学びました。民主主義、人権、自由の名の下に米国が始めた戦争は、結局イラクと中東の破壊だった。いま、そのつけを払っているのは中東の私たちです。同じことが今、ウクライナで繰り返されています。ウクライナを支援すると言って、武器をどんどん送り込み、その結果、国土がどんどん破壊されていく。欧米はウクライナを犠牲にして、ロシアと戦っています」(朝日新聞デジタル「ウクライナ危機の深層」)。
渇いた冷めた見方だとも受け取れるが、「民主主義、人権、自由の名の下に米国が始めた戦争は、結局イラクと中東の破壊だった。いま、そのつけを払っているのは中東の私たちです」という言葉こそ、当事者としての「戦争」の現実であろう。「そやけど なんで わたしが 強ならなあかんねんやろ―――か」。40年前の絵本のことばである。この車いすに託されたこのひと言を、今、再び繰り返し、反芻したいと思う。