祈祷会・聖書の学び ペトロの手紙一3章13~22節

以前、教会の青年会で有明海に出かけたことがあった。海岸近くに小さな島があり、岸辺から道が続いている。その島に歩いて渡り、釣りや貝堀り等をしてしばらく遊んでいる内に、海の水が満ちてきた。渡り道が水没している、これはやばい、というので大急ぎで引き返したが、海岸に着くころには腰あたりまで水かさが増えて、びしょぬれになりながらの帰還であった。有明海は、全国でも有数の干満の激しい場所である。干潮の時には、はるか沖の方まで干潟となり、漁業関係者は、そこまで軽トラに乗り出して魚貝類を漁るが、潮が満ちれば、直ぐ海岸沿いの道近くまで高波が押し寄せてくる。潮が満ちて、ずぶぬれになった青年会の皆さんの感想は、「出エジプトを体験した」、とのことであった。詩編にはこう記されている「あなたの道は海の中にあり/あなたの通られる道は大水の中にある/あなたの踏み行かれる跡を知る者はない」(詩77編20節)。この章句は、出エジプトの神の救いの出来事を、端的に物語るものである。

地球はその3分の2を海に覆われた「水の惑星」である。真っ暗な宇宙に、太陽の光を受けて青く輝く姿は、そこに住む者のひいき目に見ても、美しい。水は太陽エネルギーにより海や地表から蒸発するが、雲を作り、雨や雪となって、再び地表や海に降り注ぐ。私たちが普段使っている飲み水も、実はこうした地球規模の水循環の中の、ほんのわずかな量を用いているのである。地球にはおよそ14億km³の水があると推定されているが、その内訳は、97%は海水、残る3%ほどが淡水だが、その内7割は北極・南極地域の氷として存在しているため、地下水を含め川の水や湖沼など、生活に利用できる水は、ほんの0.8%(約1100万km³)に過ぎないと言われる。農業や産業の発展、人口増加などにより、世界中で使われる水の量は増え続けており、50年前の三倍近くまで増加し、各国で水不足が生じているが、水質汚染や洪水被害が増加するなど、世界の水問題はますます深刻になってきているのである。

人類の生存にとって、水は欠くべからざるものであるが、生命を生かしている水が、生命を奪う元凶にもなっている、というのは、大自然というものの二面性を表しているだろう。自然は、豊穣をもたらす恵みの基であるが、文明を荒廃させる驚異的な諸力の源でもある。だから古代人は、水に「生と死」の神秘的な両面性、表裏一体の働きを認め、儀礼や祭儀の際に象徴的にそれを用いたのである。ヨハネ福音書は、エルサレム神殿での祭りの際に行われた「水注ぎ」の儀礼を伝えている(7章37節以下)。七日間行われる「仮庵の祭」では、イスラエルの荒野での放浪生活を想起して、祭司は毎日、黄金の水差しを携えてシロアムの池に降り、賛美の歌をもってその水を汲み、再び神殿に上り、これを祭壇の西に注いだ。群衆は喚呼をもってこれを賛美し祝ったという。モーセが杖で岩を叩き、荒野で水を得て、一同の渇きが癒されたことを象徴する儀式と意味づけられているが、その起源はカナンで行われていた「雨乞い」の祭儀に遡るだろう。

今日の聖書個所、ペトロの手紙一3章22節に「水の中を通って救われました」と記され、ノアの箱舟の出来事が、想起されている。この「水の中を通って」こそが、私たちの全ての原点、出発点であることを主張しているのである。

ここで「水」とは洗礼、バプテスマの水に比定されている。聖書ばかりでなく、世界の至る所に、「洪水の物語」は神話や昔話として伝承されている。しかもその伝承は「文明」と密接にかかわるものと意識されている。確かに文明の発祥には、水が深くかかわっている。水はそこに住む人々の生命を養い、左右する第一の要素であった。世界最古の文明であるメソポタミア文明は、ティグリス・ユーフラテスの2つの大河によって育まれ、その文明の拠点都市であるバビロンは、都の縦横を幾筋もの運河が張り巡らされているという見事な景観を形作っていた。

大河の水は、一年中、一定の水量で流れているわけではない。源流の遥かな山々の雪解けと共に水かさを増し、毎年、夏には氾濫し、平地の一面は、全て水で覆いつくされる。その時には、人間の営みがすべて水に没し、容赦なく根こそぎにされる。しかし水が引いた後には、洪水のもたらす恵み、山からのミネラル、養分によって豊かな土壌が残されるのである。水のもたらす災厄と恵みによって、相反するものによって文明が築かれ維持される。この逆説的な人間の経験が「洪水物語」として語り伝えられることとなった。

しかし、聖書の人々の信仰、ひいては私たちの信仰は、メソポタミアの大洪水に端を発するものではない。古代のメソポタミアの宗教のように、自然を神として、自然の持つ強大な力をコントロールしようとする呪術が、その根本にあるのではない。既述のように、水は「生と死」の象徴と見なされている。その水に浸され、水から引き出されること、つまりバプテスマの儀式は、「死んでよみがえる」ことを象徴しているのである。つまりバプテスマによって、私たちは「死んでよみがえられた方」主イエスと結ばれ、ひとつにされるのである。

この手紙の2章の冒頭には、「生まれたばかりの乳飲み子のように」という言葉が見られる。胎児は母親のお腹の中で、羊水に浸って、水の中で成長して行く。だから私たちはひとり残らず水泳の能力を持って生まれて来る。事実、出生後すぐの嬰児は、温かい水に浸すと、大きく手足を伸ばし、安心し寛ぐのである。プールに浮かべれば、手足を拡げて泳ごうとするのである。人はこの「母なる海」から引き出されて、外の世界へと生まれ出る。誕生は「水の中を通って」はじまる出来事なのである。

皆、水の中を通って生まれた経験があるのに、いわゆる「カナヅチ」の人がいるのは、水に対する「恐怖心」のせいであると説明される。温かく常に守られていた、かつての「母なる海」と比べるなら、実際、外の世界はあまりに非情、冷酷で、うすら寒い場所かもしれない。「四方から恐れが取り囲む」と言っても過言ではないだろう。しかし主イエスはこの世に降られ、乙女マリアより生まれ、人間となってくださった神なのである。その方もまた、自ら、水に入りバプテスマを受けられたことは、私たち一人ひとりと、徹頭徹尾、共にあろうとされたしるしである。十字架で死んで、よみがえられた方が、私たちと常につながっていてくださるということを置いて、「水から上がった」私たちを慰め、励ますものは他にないであろう。「カナヅチ」でも、安心して生きられるのである。