祈祷会・聖書の学び 箴言24章19~34節

 「くるあさごとに くるくるしごと くるまはぐるま くるわばくるえ」。詩人岸田衿子氏の『くるあさごとに』という小品である。「くる」という音が何度も繰り返され、くるくると目が回るような忙しさが巧みに表現されている。最後の「くるわばくるえ」が痛快である。追い立てて来るような仕事や忙しさを、せめて心の中で「どうなとなれ」とうっちゃりをかけて投げ飛ばしているようにも感じられる。讃美歌にも「くるあさごとに」で始まる曲がある。この歌は昔からよく歌われ、広く知られている歌なので、もしかしたら作者は、ここから着想を得たのかもしれない。
しかし言葉遊びであっても、歌われている内容は「遊び」ではなく、生活への鋭い批評となっているだろう。生きるためには、しなければならないことが山積みであるように思われる。その重圧の中で、誰でも一度は「くるわばくるえ」と言い放ちたくなる気持ちが、心の底にあるのではないか。「忙」とは、「心を滅ぼす」と書くと言われるように、心が悲鳴を上げているような忙しさを、「勤勉」とは呼ばず、心の悲鳴に配慮することを、「怠惰」とは呼ばないであろう。それらを取り違えているところに、私たちの「仕事」に対する思い違いあるのではないか。
 箴言は、聖書の知恵文学のひとつである。その特徴のひとつが、「普遍性」であると言われる。箴言の文言の多くが、古代エジプトやメソポタミアの知恵の言葉、諺や格言と共通しているからである。知恵の学者あるいは教師は、近隣諸国に語られる優れた知恵の言葉を採集し、あるいは文献を漁った、ということがあるだろう。知恵の言葉を身に付け、それを適宜、必要な時に口に出して相手に語ることができる能力は、外国人たちと交流し、接触する際、商取引や国際関係を構築する際には、必要不可欠な資質でもあったろう。
 しかしそれ以上に、「知恵」の本質には、ユニヴァーサルな側面があると言えるのではないか。即ち、どのような時代や文化、あるいは地域の中で生きているにしても、人間として生きる限り、一定の価値観を持ち、同じような思考や発想をし、その結実として知恵の言葉が育まれる、という風に理解できるのである。そうなると人間は、「知恵」という舞台の上で、往来し、関係を育み、理解を深めているということであろう。多様な人々が一堂に会する国際会議の場等で、そこの参加者が盛んにユーモアやウイットを披露しながら交流する風景は、正に人間が何によって結ばれているのかを、はっきりと教えているのではないか。
 今日の聖書の個所、30節以下にこう記される。「怠け者の畑の傍らを/意志の弱い者のぶどう畑の傍らを、通ってみた。見よ、いらくさが一面に茂り/あざみが覆い尽くし、石垣は崩れていた。わたしはそれに心を向け、観察した。それを見て、諭しを得た。『しばらく眠り、しばらくまどろみ/手をこまぬいて、またしばらく横になる。貧乏は盗賊のように/欠乏は盾を取る者のように襲う』」。この文言は、まさに「まちぼうけ」の風景そのものではないか。
 「勤勉」の勧めは、古今東西いずこにおいても、口にされ、耳にされて来た事柄である。但し、その勧めも、近代以後の資本主義社会の進展に伴う「利潤追求」のための弛まぬ努力の大切さを語るものではなかろう。私たちは、古代では、産業や工業技術が未発達なゆえに、ごく一部の支配者層を除いて、一般の人々は皆、朝起きてから夜眠るまで、奴隷のようにひと時も休むことなく、身を粉にして働いていた、と思い込んでいる節がある。しかし近年の社会学的人類学的探求によれば、技術が未発達な時代は、今以上に、能力主義、成果主義的の見地のもとに、労働がなされていたというのである。即ち、今日やるべき仕事が終わったならば、後はそれそれ自由に寛いでいた。というのである。早く仕事を片付けた者は、それだけ早く休憩できたのである。逆に仕事の遅い者は、労働は長時間に及ぶ。
 古代イスラエルでは、農民は夜明けとともに、農作業に出かけたという。昨日の残りもののパンをかじりながら。そして日が高くなる昼頃まで仕事をしたなら、帰宅して昼食を摂り、後は涼しい木陰や日除けのテントの下に寝転がり、昼寝をしたと言われている。特に暑い夏の時期には、ゆとりある働き方をしなければ、熱中症に陥り、生命にかかわるのである。余りに己の利益を追求しすぎれば、自然や隣人、共同体に重い負担をかけることを知っていたのである。そのような生活から語られた諺が、「明日できることを今日するな」であり、今でもアラブの合言葉のようにもなっている。
 聖書の「勤勉」の勧めも、そのような線から理解すべきだろう。「怠け者」とは、いわゆるできるだけ楽をしようとする怠惰な者と言う意味ではなく、本当に自分が今為すべき仕事を弁えず、的外れに生きている者を指すのだと思われる。怠け者の畑は「いらくさが一面に茂り/あざみが覆い尽くし、石垣は崩れていた」という描写も、実際の畑の有様というよりも、人間の心の中の様子を、象徴的に物語るものであろう。つまり、自分の内面が耕されず、放っておかれて荒れ放題となっているのである。一面に雑草が生い茂っていれば、地面には光が射さず、土も潤されず、堅い石地となって、蒔かれた種は芽を出さず、花も咲かず、ましてや実など結ばれることはない。
 中国の古い諺に「守株(しゅしゅ)」という成句がある。「切り株を守る」という意味で、本来は、古い習慣に確執し、全く進歩がないこと、また、臨機応変の能力がないことの意味だと理解されている。箴言が言及する「怠け者」もまた、そのような意味合いが込められているだろう。「畑のいらくさ、あざみ」は、「頑固さ」をも指し示している。自分に凝り固まって、心が外に向かって開かれていない。
聖書は人間を考える時には、必ず神との関わりの中で理解しようとしている。ここでの「怠け者」は、人間同士を比較して、仕事の速さや勤勉さを評価しているのではなくて、神に対しての「怠惰」なのである。一説に「神はいつも働いており、いつも休んでおられる」という物言いがある。神は働く神であるばかりでなく、休む神なのである。労働も安息も、どちらも恵みなのである。却って聖書は、神が休んだように、人は如何に休むべきかを教える。実に休みにおいてひとり一人の人間に出会われる。ただ闇雲に働いて、自己実現ばかりに汲々とするのは、神の知恵に適う生き方ではないであろう。