「虹の色は、いくつあるか」と尋ねられたら、どう答えるだろうか。「7色」と答えるのが普通と考えがちである。ところが同じ虹を見ているはずなのに、世界の国々やそこに住む地域の人々に尋ねると、2色から8色までばらばらな答えが返ってくるという。例えば、アメリカ・イギリスでは6色(赤、橙、黄、緑、青、紫)、中国・フランス・ドイツ・メキシコでは5色(赤、黄、緑、青、紫)、ロシア・アフリカ、東南アジア諸国では4色(赤、黄、緑、黒)という答えが多いのだそうである。これは色彩感覚の違いによって起こると言われているが、結局、虹を眺める人の、それぞれの主観が反映するということらしい。もしかすると私たちも、虹は7色という固定観念が刷り込まれているだけで、実際に数えてみたら、認識する色の数は人それぞれで違うかもしれない。確かに実際の虹は、「スペクトラム」であって、くっきりと7つの色に分割されている訳ではない。数え方は違っていても「どれが正しい」という訳ではないのである。
「薄橙色(うすだいだいいろ)」と聞いて、皆さんはどんな色を思い浮かべるだろうか。この名称は、かつてこの国の絵の具やクレヨンで、「肌色」と呼ばれていた色の呼称である。20年くらい前まで、当たり前のように用いられていたこの呼称が、変更になったのは、大方の推測通り、人間の肌の色は、皆、決して一様ではない、という単純な理由からなのである。幼少の頃、「肌色」のクレヨンが切れていたので、黄色で塗ったところ、それを見た周りの子から、「みかんの食べすぎ」と揶揄されたのを思い出す。日焼けや食べ物で、あるいはお化粧で、肌の色は変化し、それ以前に、ひとり一人の肌の色は、一様ではない。ましてや世界に住む人々の肌の色は、それこそ「多様」なのである。
箴言は、「ソロモンの知恵の書」を始め、すでに成立していた多種多様な知恵の書が、併せられ編纂されたようである。今日の個所は「アグルの言葉」と題されているが、「ヤケの子アグル」によって「託宣」として語られた言葉集とされている。ところが、「託宣」と訳される用語は内容にふさわしくなく、「マッサ」とは、話者の「出身」を示すものではないか、と考えられている。そればかりか、「アグル」とは何者か、聖書中には全く不明なのである。学者は、「イスラエル的な名とは言えない、これらの節は非イスラエル的な知恵文学であって、推測するに、イスラエルの知者たちが初期の時代に継承したものであろう」(ワイブレイ)と考えている。イスラエルの知者たちは、自らの生活環境に固執したのではなく、広く周辺諸国の文化や理解に目を向け、手を広げて学んだことが知れるのである。
4~6節は、元々の文章への挿入句であろう。4節はこの書のあちらこちらに語られる「知恵の讃歌」のひとつだろうが、知恵の遥かな広がりを歌うことで、知者の心の奥行きを表明している。知者は、大いなる知恵と共に、遥かな広々した世界に飛翔するのであるという。ところがそうした文言に対して、ある種の信仰的逸脱を危惧する常識人が、「み言葉に付け加えようとするな」とくぎを刺すように、たしなめているようにも伺える。さまざまな知恵のモザイクがこの短い個所に見い出せて、興味深い。
この個所でとりわけ知者らしい文言は、やはり7節以下の人生への指針が語られる部分であろう。まず「二つのことをあなたに願います。わたしが死ぬまで、それを拒まないでください」。「死ぬまで」とは「生涯のすべてを通じて」ということで、知者は、刹那的に今の享楽を考えるのではなく、人生行路のすべてを見晴らして、一生の歩みを支え、励ますものが何かを考え、求めようとするのである。こうした長い時にわたる視野を持つことが、「知恵」の思考の特徴と理解することができるだろう。ミクロ的な視点と、マクロ的な視点の複眼的な思考の獲得こそが、知恵の目指すところなのである。
そこで「二つのこと」というのがまた興味深い。「ひとつ」と言われると却って人間は決断が難しくなるものである。確かに、若い頃は、純粋に「唯一絶対」なひとつのものを求めたがる。「あれかこれか」、しかし選びたいもの、望みはたくさんあるように見える。いきおい「あれもこれも」となり、いろいろな事柄に手を伸ばせば、収拾がつかなくなり、立ち往生してしまうであろう。次第に、すべてが相対的に見えて来て「あれでもいい、これでもいい」になるだろう。そういった人生経験の反映が、「二つのこと」なのである。たとえひとつのことが費えてしまっても、もうひとつが支えるのである。かと言ってつかもうとするものが多すぎれば、手に負えなくなってしまう、ということだろうか。
まず「むなしいもの、偽りの言葉を/わたしから遠ざけてください」という願い。これは現代でも切実な問題である。人生を揺るがす事柄は、大抵ここから生じて来るのである。人は目先の欲望によって、あるいは不安や心配をあおられることで、心に恐慌をきたし、正常で落ち着いた思考ができなくなる。その元凶は、「むなしい、偽りの言葉」なのである。人は言葉で生きているから、その言葉によって、健やかさもまた捻じ曲げられるのである。そしてそれらの「悪意ある」言葉に対して、私たちは真の言葉の所在(ありか)を、知る必要があるのである。
さらに「貧しくもせず、金持ちにもせず/わたしのために定められたパンで/わたしを養ってください」。やはりもうひとつは、「パンの問題」ということができる。食べ物は生存に直接関わる事柄であるから、重大なのは言うまでもないが、パンの困窮が自分の生命のみならず人間社会全体に、深く影を投げかけることになることに留意したい。「飽き足りれば、裏切り/主など何者か、と言うおそれがあります。貧しければ、盗みを働き/わたしの神の御名を汚しかねません」。
ここでパンの問題に即して、「貧しくもせず、金持ちにもせず」という具合に、「極端」なあり方が拒否されて言及されていることに注意したい。パンによらず、財産、権力すべてについて何によらず「極端」は、危険な誘惑でありバイアスであることを認識する必要があるだろう。世の中の事柄は、大抵、くっきりと色分け、区分けできるものではなく、無数のグラデーションによって、成り立っているのである。それを無理やり区別や差別をして、一方だけを過大評価することで、どれ程、この世界は息苦しいものになっているだろうか。「神の目」は、広く大きく深く、小さなものから大きなものにまでに及んでいる。その眼差しを常に意識しつつ、人間のありのままを、いつも心に描いていたいものである。