祈祷会・聖書の学び コリントの信徒への手紙一9章1~14節

「とにかくね、僕にはね、広いライ麦の畑やなんかがあってさ、そこで小さな子供たちが、みんなでなんかのゲームをしてるとこが目に見えるんだよ。何千っていう子供たちがいるんだ。そしてあたりには誰もいない――誰もって大人はだよ――僕のほかにはね。で僕があぶない崖のふちに立っているんだ。僕のやる仕事はね、誰でも崖から転がり落ちそうになったら、その子をつかまえてやることなんだ。(中略)一日じゅう、それだけやればいいんだな。ライ麦畑のつかまえ役、そういうものに僕はなりたいんだよ。馬鹿げていることは知ってるよ。でも、ほんとになりたいものといったら、それしかないね。馬鹿げていることは知ってるけどさ」。

J.D.サリンジャーの代表的小説『ライ麦畑でつかまえて』(野崎孝訳)の一節である。物語は、語り手であり主人公のホールデン・コールフィールドが西部の街の病院で療養中、去年のクリスマスの出来事を語るという形式で叙述される。彼はプレップスクールであるペンシー校から成績不良で退学処分を受けるが、せめてもの抵抗で、学校を追い出される前に自分からここを出て行くことに決める。その後、数日間、知人友人たちとすったもんだした挙句、家に帰ると両親は不在で、妹フィービーと再会する。フィービーは兄に「お兄ちゃんは世の中のことすべてが気に入らないんでしょ、何になりたいの」と言われて、彼なりに答えたのが、上述の台詞である。

「自分の好きなこと」で生きて行けたら、これに勝る幸いはないであろう。但し、好きなことを「自分の仕事」にすることは、誰にでもできることではない。世の中は、公的な資格が必要とされることが多く、その中には取得することが非常に難しい「狭き門」で、なりたいからと言ってすぐになれるものでもない。そして、その仕事に就くために、殊更に資格の有無を問題にされるのが常である。

今日の聖書個所は、パウロの手紙の一節であるが、コリント教会で生じていた問題が、具体的に知れる部分でもある。この章の冒頭は「わたしは自由な者ではないか。使徒ではないか。わたしたちの主イエスを見たではないか。あなたがたは、主のためにわたしが働いて得た成果ではないか」と言う具合に、随分、激しい語調で語られている。原文では、ギリシャ語の否定詞“ούκ(Not)”が文頭に置かれ、しかも繰り返されており、これだけでも尋常でない激しさが伝わって来る。

なぜこのように著者はいきりたっている?のか。「使徒」という言葉が理解の鍵になる。この手紙では、冒頭に教会の中に「分派」ができており、それぞれが「自分は誰につく」と議論が生じていたことが記されている。そして教会員の間の議論は、パウロの「使徒性」をめぐって盛んになされていたようなのである。

そもそも「使徒」とは主イエスによって立てられ、宣教のために遣わされた弟子たちの呼称である。だから基本的には生前の主と何らかの面識があり、その謦咳に触れていた者たちである。「12弟子」がその典型ではあるが、これはイスラエルの12部族を想起させる象徴的な呼称であるので、彼らのみが使徒であったわけではない。「使徒」とされた人々の中には、主の兄弟ヤコブ(最初に成立されたと目されるエルサレム教会では、シモン・ペトロ以上にリーダーシップを発揮していたらしい)やマグダラのマリアはじめとする女性宣教者たちも、そのように呼ばれていたことと思われる。

ところがパウロは、元々ステファノの殉教の場にも立ち会っていた教会迫害者のひとりであり、ダマスコ途上で復活のイエスに呼びかけられ、使徒とされたという異質な経歴を持つ人なのである。ルカの伝える所によれば、その時に居合わせた者たちは「声は聞こえても、誰の姿も見えないので、ものも言えずに立っていた」(言行録9章7節)という。回心したもののその後、故郷に引きこもっていた彼を、異邦人の宣教者とすべく尽力したのが、バルナバであり、彼がエルサレム教会の使徒たちに働きかけてくれたおかげで、彼も使徒のひとりと目されるようになった次第である。

彼の「使徒性」については、現代風に言えば「エビデンス」を持たないということに尽きるであろう。あるいは他の使徒たちからの「推薦状」を携えて、これを錦の御旗のようにしてふるまったならば、話は違ったのかもしれない。しかし彼は己の自負心がそれを許さなかった。それでも、見解の相違からバルナバからも袂を分かった後で、独自の宣教旅行を続けて、コリントの教会を始めとする異邦人教会の成立に大きく貢献したことで、彼は自他ともに「使徒」としての立場を確かにしたとも言えるだろう。

人間的に見れば、彼にとっての不幸は、やはり「肉体のとげ」、即ち「病」を抱えていたことに尽きるであろう。過酷な宣教旅行の中で、そのとげはつらい軛として彼を苦しめることが多かった。「去る者は日々に疎し」という諺もあるように、病の悪化によって、教会訪問が困難となることも多かったのである。初代教会の時代には、使徒は「巡回伝道者」のように、教会を巡って宣教活動を行うことが常であったから、教会に顔を出さないということは、やはり不信の原因ともなったことが容易に察せられる。そのために彼は繰り返し手紙を記しては書き送り、訪問の代替としたのだが、やはりリモートのように、そこは限界もあったのである。

2節「他の人たちにとってわたしは使徒でないにしても、少なくともあなたがたにとっては使徒なのです。あなたがたは主に結ばれており、わたしが使徒であることの生きた証拠だからです」。ここにパウロの最も伝えたいメッセージが込められている。結局「使徒性」とは、人間的な資格やお墨付き、推薦状の類ではなく、今、ここで主イエスを信じて、そのみ言葉に生きている人が居るかどうか、ただそれだけなのである。主のみ言葉を宣べ伝える宣教者が居なければ、信じることは起こらない。「信仰は聞くことによる」のである。そのようにして主に結ばれる人が今、ここにいるならば、そこに「使徒」が遣わされている証なのである。それは人間によらず、ただ見えない主のみ旨によって、その選びによって立てられるのである。コリントの教会の人たちは、やはり見えない主の生きた働きよりも、見える人間的な働きの方に心が向いてしまったようである。そしてこのことは現代の教会にも同じように問われている事柄ではないだろうか。