祈祷会・聖書の学び ヨハネによる福音書8章21~30節

国際的に見て、日本は孤立する人の比率が高い国である、という。2005年のOECD(経済協力開発機構)調査によれば、この国は、「友人・同僚・その他の人」等、家族以外の人たちとの交流が、「まったくない」あるいは「ほとんどない」と回答した人の割合が15%に上るというのである。欧米、オセアニア等OECD加盟国20カ国の中で最も高い比率とされる。また、世帯類型別に孤立状況をみると、介護や看病に関して「頼れる人がいない」と回答した人の比率は、高齢の単身男女、現役世代の単身男性、ひとり親世帯で高く、4割以上に上る。また会話頻度をみると、「2週間に1回以下」しか会話をしていない人が、高齢単身男性で15%、現役世代の単身男性で8%いるという(国立社会保障・人口問題研究所「2017年生活と支え合いに関する調査」)。

この国で「孤独や孤立」が喫緊の課題であることがよく分かる数字である。それでは、他者との関係性が乏しいことは、何が問題となるのか。さしあたって、緊急時はもちろんのこと、日常生活においても必要な支援を受けることが困難になる点が挙げられる。病気になった時でも、世話をしてもらえる家族や友人がいなければ、看病はもちろんのこと、診察ための同行、さらに入院・手術等の際には、必要な支援を受けにくい状態になる。

しかし、そうした外的な不都合や困難ばかりでなく、だれか他の人との関係性の欠如、喪失は、生きる意欲や自己肯定感の低下を招くことの方が、深刻な問題であろう。実際、会話頻度が乏しい人ほど、自分のことを「価値がない」と考える傾向があるという。生きる意欲や自己肯定感は、他者との関係性を通じて感得することが多いためであろう。

今日の聖書個所の冒頭で、主イエスはこう告げる「わたしは去って行く」。この文言は、7章33節以下にも語られ、さらに16章の「告別説教」にも繰り返されている。いわばこの福音書の常套句とも言える文言であり、同じ言葉を繰り返す、というのは、やはり語る人の本音、こころ、強調点がそこにある、ということである。ここでヨハネは、直截には主イエスの受難の出来事を示唆するのだが、「十字架」という事柄を超えて、もう少し広範に「去って行く」という有様、それは人間、即ち生命あるものにとって必ず出会うことになる宿命であり、さらにそこに信仰の本質的な問題が含まれていることを指摘するのである。信仰や人生の根本に、「別離」は横たわっており、問いを投げかけて来るのである。

「わたしは去って行く。あなたたちはわたしを捜すだろう。わたしの行く所に、あなたたちは来ることができない」。生きる中で「ああ、あの人は去って行った、あの人も去って行った」という感慨を抱くことがあろう、住んでいる地域の人、同じ町内会の人々、会社や社会の人間関係、その集まり、趣味や娯楽のサークルで、あるいは教会においても、しばしば「去って行った」という事態を味わいつつ私たちは生きている。そこで生じて来るのが、「ひとり」、即ち孤独や孤立という人間の状態である。

そしてその「ひとり」という状態に付きまとって来ることが何であるのか、繰り返し語られる。21節、さらに24節「あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる」。ここには言外に「ただひとり」というニュアンスが隠されている、「ただひとり罪のうちに死ぬ」。「罪」という用語はすぐに「犯罪、悪」を連想させるので、誤解を生じやすい言葉である。「ひとりだからって言っても、そんな悪いことをしてはいない、おてんと様に顔向けできないことなどしてはいない」と反論されるかもしれない。聖書において「罪」とは、もともとは「ねじれ、くるい、的はずれ」という意味合いを持つ用語であるから、「犯罪」は、具体的、極端なかたちとして立ち現れるが。本来はもっと広範な意味の拡がりを持つ言葉である。即ち、本来のあり方から外れてしまっていることを指しているのである。その「ねじれやくるい」とは何か。

「だれか他の人との関係性の欠如、喪失は、生きる意欲や自己肯定感の低下を招くことの方が、深刻な問題であろう。実際、会話頻度が乏しい人ほど、自分のことを『価値がない』と考える」という分析をどう受け止めるだろうか。自分の生きていることの価値、生かされていることの尊さを思うことなく。ただ自分の存在を「無駄、無意味」としか感じられないとすれば、神の与えられた生命の視点から見れば、やはり「的はずれ」としか言いようのない自己理解ではないか。創世記2章の4節以下の人間(アダム)の創造の記事では、「神は土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた」とある。さらに神は言われる「人が独りでいるのは良くない、彼に合う助ける者を造ろう」、ここに記されるように、すべての人は神の手作りの作品であり、独りではなく共に生きるものであることが、本来的な生きる意味であることが語られているのである。

24節「だから、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになると、わたしは言ったのである。『わたしはある』ということを信じないならば、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる。」「わたしはある」ということを信じなければ、という主張は、あらゆる人が共存在の上に生の営みを得るということであり、さらにたとえ距離的物理的にひとりで生きざるを得ないにしてもこと、見えない主イエスが、そのひとりと共にあること告げるものである。だから「共存在」をまったく否定する人は、ひとりである以上に、独りとして生きることになる、それは本来の人間のあり方からすれば、的はずれなものとなろう。

学生らと共に傾聴ボランティア活動をされている西内みなみ氏はこう語っている「市井の私たちは、他者の気持ちに寄り添うために話を聴きに行く。なぜなら、聴くことが、相手を大切にし、愛することだと知っているからだ。震災後のボランティア活動で、仮設住宅で暮らす高齢者の所に行った学生が『何もできない』と涙ぐんでいた。被災者の方に『いえいえ、そばに来てくれて、私の話を聴いてくれただけですごくうれしいよ』と言っていただき、学生は号泣した。(中略)『ゆるさない』と決めた自分は、怒りを手放さず他者を罰していると、結局、自分自身もおりの中に閉じ込めてしまう。」(3月30日付「日曜論壇」)。独りであることの問題とそこからの解放が具体的に語られている。「自分自身をおりに閉じ込める」これが孤独や孤立の姿であろうし、そこにもがき苦しみ、さらに諦めの中に置かれている私たちの姿と重ね合わせるが、そこに「わたしがある」と言われる主のみ声をしっかりと聞く開かれた心を持ちたいと願う。神の言葉は、心の扉の鍵となろう。