今日は「母の日」である。母なくしてこの世に生まれ出た人はいない。主イエスもまたその通りであった。使徒信条に「母、マリアより生まれ」と告白される。ところが子どもは勝手なもので、「誰も生んでくれと頼んだ覚えはない」などと文句を言う。ある母親は、こう子どもから言われた時に、「お腹の中で、生んでくれ、生んでくれと言っていたのは、どこの誰よ」と言い返したという。母ならでは返答であろう。
全体礼拝なので、ひとつの絵本を取り上げて、話の緒としたい。文/コビ・ヤマダ、絵/ナタリー・ラッセル『あなたがいてくれたから』、日本語版は2020年に刊行されている。おおきなくまとちいさなくまとの掛け合いのように、物話が進められる。すべてのページが「あなたがいてくれたから」、という言葉から始まる。「あなたがいてくれたから 私は 考えることが 好きになりました」。「あなたがいてくれたから 自分が思うより ずっと たくさんのことが できるのだと 気づきました」。「あなたがいてくれたから チャレンジすることは楽しいと わかりました」。「あなたがいてくれたから 進むべき道は ひとつではないと 知りました」。「あなたがいてくれたから いつだって 助けてほしいと 言えました」。
絵本では「おおきなくま」のことを「あなた」と呼んでいるのだと理解されるが、これが実際「誰」であるのかは、明らかにはされていない。「親」と措定するのが素直な感覚かもしれないが、それでも男親、女親どちらでもあてはまるだろうし、この「あなた」をひとりの人と限定する必要もないだろう。ひとりの人間の成長には無数の人が出会い、ふれあい、深く浅く関わるものであろう。それら沢山の人々との関わりによって、人は育てられて行き、成長して行く。但し、この絵本では「あなた」は、自分の目の前にはもうすでにいないことが、暗黙の裡に匂わされているように感じる。陰に陽に「わたし」を形づくってくれた人々は、今はもうここにはいない。但し、私の目には見えないだけで、決してなくなって、胡散霧消している訳ではない。今も、この私とつながりふれあっている。そういう「あなた」とは誰のことか。
さて、今日の聖書個所は、ラザロの死と復活を巡る、長い物語の中心部分である。本章の冒頭に「マリアとその姉妹マルタの村、ベタニア」での出来事であったことが記されている。ベタニアはエルサレム近郊、オリーブ山の南東麓に位置し、現在ではパレスチナ人の村、アル・エイザリヤに相当すると見なされている。エルサレムにほど近い場所であるから、神殿への地の利もよく、マルタ、マリア、ラザロの姉妹兄弟の家が、主イエスの活動拠点のひとつであったと考えられている。彼らが主イエスの宣教のサポーターであり、後には家の教会として機能したと推測されるのである。
この個所では、マルタと主イエスが「復活」問答を繰り広げている。さらにこの福音書を記したヨハネの復活理解も、明確になっている部分である。ヨハネの教会では、ここでやり取りされている言葉が、教会の信仰告白として礼拝において唱えられていた節がある。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか」、司式者が会衆に向かってこう問いかけ、「信じます」と会衆が答えるのである。
やはり教会において、当初から「復活」について多く議論が交わされていたと思われる。主イエスは、十字架で亡くなられた後、墓に納められ三日目によみがえられた。最初に墓に赴いた女たちはじめ、多くの弟子たちが、復活の主イエスにお目にかかり、確かに主は生きて働かれていることを、体験したのである。しかしその後一カ月余りして、主は親しい人々と別れを告げ、天に上られて、誰の目からも見えなくなった。別れの時、主イエスは「あなたがとのところに聖霊が降り、教会には神の霊の働きが満ちるであろう」、という約束と共に、姿を消されたのである。主イエスとの別離である。
教会が誕生して間もなく、ヨハネの時代にも、教会では「終末」についての議論が盛んに交わされていた。主は天に上られたが、すぐにもまた戻って来られ(再臨)、この世を裁き、この世は、終わりの日、完成の時を迎える。終末の待望が教会の中心的関心事であった。ところが期待に反して、すぐに終末はやって来ない。どうしたことか。教会の人々はこう考えたのである。「すべての人が救われるように、神は忍耐して裁きの日、終末を遅らせて下っている。だから私たちも、もうしばらく忍耐して待たなければならない」。
ところがそうならば、どんな態度や姿勢で待つべきなのか。「忍耐」というものは、「希望」と繋がっているからこそ、可能なのである。何が希望になるのか。ラザロの死を前に、主イエスはマルタに語る「あなたの兄弟は復活する」。この言葉にマルタは答える。「主よ、終わりの日のよみがえりについては、存じております」。ここに初代教会の人々が、何に慰めを見出し、何を支えに、何を希望として生きていたのかが、明らかに示されているだろう。終末を迎える前に亡くなった人々はどうなるのか。死んだままではない、来るべき終わりの日には、先に召された人々もすべて主と共によみがえるであろう。決して眠ったままではない。必ず目覚めの時がやって来る。
しかし、親しくふれあい、愛して来た者を失った人は、いつともしれない復活の時をひたすら待つというのは、やはり正直言ってつらいものである。今日の個所では、マルタがふと漏らした嘆息のような言葉がある、「主よ、もしここに(あなたが)いてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」、これは実感がこもっている。「あなたがいてくれたなら」、このひと言は、十字架で主が取り去られた後の親しかった人々の嘆き、そして教会が誕生してからも、迫害や経済的な困難、そして人間関係の不和や行き違い、軋轢が生じた時に、ふと洩れて来るつぶやき、嘆きでもあったろう。
ヨハネはただ将来もたらされるだろう「終末の時」ばかりを強調し、わき目を振らずそれだけに心を集中せよ、余計なことは考えるなという硬直化した姿勢がすべてになって、それしか見えなくなってしまうことに、危惧を覚えたのである。皆、終わりの日には、主の恩寵によりよみがえるのだ。今がどうあれ、さしたる問題ではない。今、この世に差別があり偏見があっても、ご飯が満足に食べられない人がいても、病気でも医者にかかれない人がいても、子ども達が捨てられても、戦争でたくさんの罪なき人が殺されても、やがて終わりの日には、神がすべてを裁き給う、だから私たちはとやかく言わずに、ただひたすら待てばよい。正論としてはそうかもしれぬ。わたし一人の力で歯ぎしりした所でどうなるものでもない。人間ひとりの力はたかが知れている。しかし「為すすべなし」かもしれないが、それで、主イエスの愛にどうつながるのか。
「わたしは復活であり命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者は誰も、決して死ぬことはない」と主はマルタに語られた。「死んでも生きる、死ぬことはない」という言葉は誤解を与えかねない、いささかオーバーな言い方だとも言えるだろう。この言葉は「主イエスの十字架と復活」を通してしか、受け止められないものであろう。主イエスは死んでよみがえられた方であり、キリストの復活のいのちは、遠い将来ではなく、今、働いているのであり、私の内に表されているのである。私たちは、どんな時も、生きる時も、死ぬときも、イエスと共に生きているのであり、主イエスの復活のいのちを宿しながら、表しながら、今、生きるのである。私たちの生命は、どこかで主イエスの復活のいのちに結びついている。
「他者を『ゆるさない』と考え、怒りや憎しみにしがみついているとき、人は自分がとらわれの身であることに気づけない。『ゆるさない』と決めた自分は、怒りを手放さず他者を罰していると、結局、自分自身もおりの中に閉じ込めてしまう。『ゆるさない』でいると、喪失感や悲しみを味わい、安らぎや愛が感じられなくなるだけでなく、人づきあいができなくなり、他者を信頼することができなくなる。実は他者をゆるすことは、自分をゆるすための第一歩なのだ」(西内みなみ「聴くことは、愛すること」)。
主イエスのゆるしの愛を、今、自分の生きる中で繰り返し思い起こして、「ゆるしゆるされながら」日々を歩むこと。それは、ただ死に向かう人生ではなく、新しい生命のよみがえりを与えられて生きることにつながって行くのではないか。徒労の中で、空しく費える一日を過ごしたとしても、また新しいいのちの力を与えられるのである。
最初に紹介した絵本に、「あなたがいてくれたから、自分を信じることができるようになり」という言葉が語られた。「信じる」とは自分の可能性や能力、才能、良い面に期待するという意味ではない。「信」とは「誠実、忠実、まこと」という意味である。自分を許し、解放できる人こそが「自分を信じる」人であり、それは「あなたがいてくれる」と言える誰かを持つ人のことである。「主イエスがいてくれたから」、いや「いてくれるから」、死んでも生きるのである。