「ガリラヤ中を回って」マタイによる福音書4章18~25節

ある中央紙にこういうコラムが掲載されていた。「長いものには巻かれろ――。『強大な権力を持つ人には逆らわず、従っておいた方が良い』との格言である。象の長い鼻に巻かれた猟師が抵抗せず、そのままの体勢で、襲いかかってきた獅子を弓矢で退治した中国の古い物語に由来するという。難を逃れた象が連れて行った先は象の墓場。猟師が象牙を持ち帰り、市場で売って大もうけしたとの逸話が、処世術を示す言い回しに転化したようだ米経済界では今、強大な権力を誇示する次期大統領に『巻かれろ』との空気が広がる」(1月13日付「余禄」)。

「長いもの云々」の諺について、イメージとしてはやはり「蛇」が連想される。映像で太いニシキヘビやアナコンダが、家畜を締めつけている不気味な姿からそういう印象を思い浮かべるのだろう。しかしコラムの話が本当なら、「長いもの」が象の鼻であった、というのも意外である。もっとも実際の大自然では、野生の象は、ライオンを怖れて逃げることはない。踏みつけれそうになって逃げるのはライオンの方である。

新年が始まって、既に半月余り、一月も下旬だが、干支では「へびの年」ということで、へびに因む話題もなお伝えられている。東北大と東京大のチームが、沖縄や鹿児島の奄美大島に生息するヘビのハブが持つ毒の成分に、アルツハイマー病の原因物質を分解する作用があることを、培養細胞を使った実験で突き止めたと発表した。これから動物実験などで効果や安全性を確かめるそうだが、将来、新たな認知症治療法の開発につながる可能性があるとしている。研究者たちは「ヘビの毒という強い成分だからこそ、人間の体内で力を発揮すると期待できる」と語る。少し前から、画期的な新薬は、自然毒(動物や植物の毒)から生み出されるのではないか、と言われてきたが、へびの毒から難病の特効薬が作られ、それで製薬会社が大儲けをするという、「長いものにまかれて」象牙の山に連れていかれる、という喩えが、医学の現場で現実になる日も近い、ということか。

今日はマタイの伝える「弟子の召命」、それに直に続く「ガリラヤ宣教」についての記事である。いずれの福音書にもそれらの出来事が語られるが、マタイは他の福音書の記述に比して、非常に簡略化していることに、一番の特徴がある。とりわけ最初の弟子たちに声を掛け、弟子として招かれることと、それに続く宣教が、正に一体であることを語ろうとするのである。他の福音書は、弟子たちの召命が、宣教の前段階、準備のような仕方で記され、宣教ワン・チームの段取りが整って、そこから多くの人々への宣教の開始というような仕方で記述される。意図的にマタイはこの2つの出来事を、同じ用語で繋いでいるのである。20節「二人はすぐに網を捨てて従った」。そして22節「この二人もすぐに、舟と父親とを残してイエスに従った」。さらに25節「こうして、ガリラヤ、デカポリス、エルサレム、ユダヤ、ヨルダン川の向こう側から、大勢の群衆が来てイエスに従った」。即ち「イエスに従った」という同じ言葉によって、すべての事態がひと括りにされているのである。最初の弟子、一番弟子のシモンとアンデレ、との出会いから始まって、大勢の群衆に対するに至るまで、「(出会った人が)従った」、直訳すれば「後ろについて行った」というのである。

ここでの主イエスの振る舞いは、この時代に人々にとって、理解しがたく、尋常でない行動だと言っても良い。そして福音書記者は、これを公生涯の最初に置くことで、ナザレのイエスという方の、並外れたペルソナ、彼の個性・特性であることを語ろうとしているのである。一体主イエスの振る舞いのどこが奇妙だと思われるか。

古代では、世界のどこの国でも、ひとつの普遍的な価値観があった。それは「人生の肝心は、師と仰ぐべき人物を見出し、その足元に座る(弟子となる)こと」が、人生の浮沈を分けるものとして見なされていた。まだ公教育制度の整っていない時代である。庶民でも学べる学校制度、とりわけ義務教育制度などというものは、どこの世界でもこの数百年の間に生まれてきた文化である。すると生きる術を得るためには、「師」と仰ぐべき人間を自ら見つけて、自分の足で師と仰ぐべきその人の所に行って弟子となり、研鑽を積み、技術や技能を習得し、自分の付加価値を高め、師を介して人間関係を構築し、同業者同士の繋がりを頼りに働きの場を得るのである。極端に言えば「物乞い」をするにも、親方がいて、そこに弟子入りし、技術を学び、組合の一員にならなければ、開業できないのである。もちろん稼いだ金は、その上前をはねられる。

ところが主イエスはどうしたか。ガリラヤ湖のほとりを歩いていると、シモンを始め数人の漁師たちが、網を打って仕事をしているのをご覧になった。そして言われる「わたしについて来なさい」(19節)。これがどうして異常なのか。まず、この時代の人間関係は、地域で同じ仕事をする仲間内で成り立っていた。だからナザレの者、つまり他所者が、しかも漁師でもない部外者が、わざわざ声を掛けて来ることはまずない。そしてそれ以上におかしいのは、「わたしについて来なさい」つまり「自分の弟子になれ」、と促し、あるいはお誘いするというのは、普通では考えられない。弟子になりたい者が、自分の方から「弟子にしてくれ」と頼むのが、この時代の「仁義」というものである。頼まれた先生が認めれば、師匠と弟子の関係が成立する。ところが先生である主イエスの方が、弟子を募る、こんなことは聞いたことがない。これでは「余程この先生、人気や人望がないのか」となるだろう。

19節の「わたしについて来なさい」は直訳すれば「さあ、わたしの後ろへ」という訳文になる。普通なら、「あれをしろ、これをしろ」と、いろいろ細々したことを、師匠は命じるものである。「まずは雑巾がけから」が弟子たる者の、通り相場である。ここで主イエスは、ただ一つのことしか指示していない。「わたしの後ろにいなさい」。先生の後ろにいるなら、先生がどんな人と出会われ、何を語り、何をするのかが、すぐ間近で、しっかり見えるだろう。前にしゃしゃり出れば、邪魔をすることになる。横に出るなら余計なことをしでかす。後ろなら、守られるし、良く見える。後ろについていったなら、見よう見真似で、いつか先生の振る舞いの猿真似くらいはできるようになるだろう。だからこの「ついて来なさい」は、主イエスのなされるその働きの「後に続く」ということをも意味している。実際、主イエスが天に帰られてから、最初の教会の人々は、この主イエスの物真似をしようとしたのである。もちろん、先生のようにできる訳がない。しかし後ろで見ていた通りに、なんとか見様見真似で、それでも数十年それを続ければ、少しは様になって来る。

この「弟子の召命」に続く「たくさんの病人の癒し」の記事も、主イエスの並外れた振る舞いを今に伝えている。今の時代、余程、特別な場合には、無理を言って医師に「往診」をお願いすることもあるが、大抵、病気を診てもらおうとすれば、自分の方から出向いて病院に行く。古代でもそれは同じことで、癒しのカリスマを持っているとみなされる人、今で言う「医師(呪術師)」のところに行って、治療をお願いしていたのである。

ところが主イエスは、23節「ガリラヤ中を回って云々、ありとあらゆる病気や患いを癒された」というのである。このみ言葉で興味深いのは、「病気」と「患い」が区別されていることである。「病気」とは個人的な苦しみであるが、「病」はさらに家族や身内、周囲の人にも影響を及ぼす。「心配や重圧、不安」、といった目に見えない「煩い」を生じさせる。ひとりの病気が治れば、それですべて人間の問題、家族の問題が解決するのではない。「病気」があっても、「病、患い」が受け止められるときに、真実の癒しは起こる。主イエスは病の人、そしてそれゆえに患いに満ちている人々の所に、自分から出向いて、働かれるのである。その後ろには、たくさんの後について来る者たちが、金魚の糞みたいにくっついている。まるで子どものお楽しみゲームを見るようである。今まで、仲間内で、同業者で、損得で、地縁血縁で結びついていた人々が、その狭い垣根を超えて、直接に顔と顔を合わせて、出会い、交わるようになった。

そしてマタイは、弟子の召命と大勢の人々の癒しが、別々の事柄ではなくひとつの出来事であることを主張する。ペトロたちは主イエスの後を継いで教会の働き人となった人たちだが、使徒であるからと特別な存在ではない。使徒以外の教会に集う無数の人々もまた、「わたしについて来なさい」と言われて、皆「後に従った」人たちなのである。主イエスの「ついておいで」のみ言葉によって、人生が新しく歩み出されたのであると。ただ主イエスの招きがすべてなのである。

「命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は、仕末に困るもの也。此の仕末に困る人ならでは、艱難を共にして國家の大業は成し得られぬなり」(西郷南洲『遺訓』)。この中に彼の有名な言葉「敬天愛人」も語られているのだが、この「命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人」とは、主イエスを暗に思い浮かべているのではないか、と評する人もいる。この「仕末に困る人」が、あなたの前にやって来られて、「わたしの後について来なさい」と言われるのである。皆さんは、この呼びかけを、かつて聞いた、またこれからも聞くことになる。ついて行って、何が分かったか、何が見えて来たか、その方の十字架への歩み、そこにまさしく命への道があることを、またさらに知らされることであろう。