こういう文章を読んだ、「学校生活のなかでは、友だちが多いことがいいとされ、友だちがいないことはまるで悪いように扱われる場合が多いかと思います。自宅でも学校でも、大人たちから『友だちと仲良くしなさい』『友だちをたくさんつくりましょう』といわれ、事あるごとに『友だちできた?』『友だちと仲良くできている?』『いま一番仲のいい友だちは誰?』といった質問を何度も受けて育ちます。高学年になり、ひとりで過ごすことが平気になっても、ひとりで本を静かに読んだり、ひとりでお弁当を食べたりしているだけで、まわりから『友だちがいないのは、みんなから嫌われているからでは』と疑われてしまうこともあります。集団で活動し、共同作業のなかで協力し合って問題を解決することは社会生活に必要なことであり、学校生活をとおして身につけていくべきスキルだとは思います。しかし、友だちをたくさんつくることは学校生活の本来の目的なのでしょうか? これは、議論の余地があるかもしれません」(集英社オンライン2023年9月23日)。現代のこの国の「ぼっち」への軽侮、そして過度とも言えるコミュニケーション力の評価の根が、どこにあるかを考えさせる分析だろう。
「わたしは笑い戯れる者と共に座って楽しむことなく/御手に捕らえられ、独りで座っていました。あなたが憤りで私を満たされたからです」(エレミヤ書15章17節)。この言葉を今の私たちはどう聞くだろうか。「孤高の預言者」というには格好良すぎる、仲間と群れておしゃべりに打ち興じて楽しむことができず、ただ一人、皆から離れてぽつんと座っている、という情景は、非常にさびしい印象を受ける。とりわけ古代は「集合人格」観念で塗り固められている時代であり、「ぼっち」は論外とも言える人間のあり方なのである。エレミヤの場合、そうしたあり方は、預言者としての召命に深く根差していた。非常に若くして、恐らく10代で預言者としての召命を受け、主のみ言葉を人々に語り伝えた。それだけでも大変な苦労であったろうが、それにもまして彼の語った「北からの脅威」の預言は、すぐに成就することなく民衆から反感と嘲りを被る所となったのである。
「憤りで私を満たされた」という告白には、複雑に感情が交錯しているのが見て取れる。禍いを告げる彼の言葉に、ただ反感と嘲笑をもって応じる人々への憤り、そしてそもそも預言者として自分を召した神への憤り、さらにはそんな運命に翻弄されて、ただ一人ぽつんと座っていることしかできない不甲斐ない自分に対する怒り、それらがないまぜになって、この預言者は「ひとり座っている」のである。
社会生活に支障を感じていても、自分のすぐ近くに、良き理解者、自分を愛する者がいれば、確かな慰めはあるだろう。ところがエレミヤはそのような家族、や家庭すらも与えられなかったらしい。「あなたはこのところ(祖国)で妻をめとってはならない。息子や娘を得てはならない」と神から命じられるのである。なぜなら「彼らは弱り果てて死ぬ。嘆く者も、葬る者もなく、土の肥やしとなる。彼らは剣と飢饉によって滅びる。その死体は空の鳥、野の獣の餌食となる」(16章2~3節)。家族すらも得られないとは、余りに過酷な召命ではないか、しかしこうして語る神の召命を受けて、彼は旧約の預言者の中で最も長い期間、この重く大変な務めを続けるのである。
今日の聖書個所にも、彼の抱いていた「ぼっち性」が背後に表明されていると思われる。7節「我々の罪が我々自身を告発しています」。丁度、裁判に訴えられて、検事から厳しい告発を受けても、ただ一人反論することが出来なくて立ちつくしている、本当ならば弁護者が隣に居てくれて、我が身の潔白を申し立ててくれるはずの所、誰も傍らに立って支える者がいない、というような状況に立っている。当時の観念では、自分のおかした諸々の罪は、時が過ぎて自然消滅するのではなく、いつか裁きの場に立たされることになる。但し、そこにおいても裁きの神みずからが仲保者となって、罪人の傍らに立って、取り成してくれるという信仰的な希望が残されている。目に見える神殿がそうした希望の拠り所であった。
しかしそのような希望すらも、今のイスラエル・ユダの国には失われてしまっている。それほど激しく人々の罪が、自分たちを告発している、というのである。それでは頼りの肝心の神はどうなっておられるのか。8節「イスラエルの希望、苦難のときの救い主よ。
なぜあなたは、この地に身を寄せている人/宿を求める旅人のようになっておられるのか。
なぜあなたは、とまどい/人を救いえない勇士のようになっておられるのか」、即ち、仲保者であるはずの神が、どうなっているのか。通りすがりの赤の他人、寄留者、よそ者、あるいは、もっと言えば期待外れ、見掛け倒しの勇士、折角、高い賃金を払って雇い入れた傭兵のようで、己の身が危うくなれば、さっさと戦線を逃げだすような腰抜けとなっている、というのである。
「何たる腰抜けか」、同胞、それにもまして神に対するこの預言者の批判は、随分辛辣な物言いである。但し、エレミヤという預言者の非常に激しい言葉は、ただ自分以外の誰かに向かう、他人に向けての、他人事な物言いでないことに注意したい。自らが「ぽつんと座る」ようなあり方の中で、自らを責め、自らを嘆き、途方に暮れている中から発せられているのである。だから彼の言葉は、すげなくあざ笑う同胞や、このようなひどい運命に自分を引き出した神を、ただ断罪し呪うことに、留まらないのである。
「主よ、あなたは我々の中におられます。我々は御名によって呼ばれています。我々を見捨てないでください」。これはエレミヤの神への魂の叫びであるが、ここで預言者は「我々」という主語で語るのである。みずから「捨てられてひとりにされた」という意識を越えて、同胞のひとり一人もまた捨てられた者として、否、神もまた寄留者のように、人々から無関心にされたものという思いを抱いて、ひたすらに訴えるのである。彼は他人事で事を済ます人ではない。
最初の文章の続き、「ぼっちとは、『ひとりぼっち』を略した言葉です。漢字で書くと『独法師』で、『宗派に属さない単独のお坊さん』のこと。由来となった言葉それ自体には、もともとはネガティブな意味はなかったと思いますが、時代を経て、組織・集団に属せないためにひとりである状態を選択せざるを得ないという、孤立させられているかのような暗さを伴うイメージがついたと考えられます」。エレミヤとはまさにそのような人であったろう。何より「ひとり」の中で神を知り、神に近づき、神のまことの心、み言葉を聞いたのである