「すべてを知っているなら」ヨブ記38章1~18節

「人生百年時代」と言われる。先の敬老の日に、この国で年齢100歳以上の方が10万7677人おられるとの統計が発表された。しかし、昔の謡の詞ではないが「人間五十年、下天のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり/一度生を享け、滅せぬもののあるべきか」。

こういう文章を読んだ。「同じ1年でも子どもには長く大人には短い、というのが、近年話題の『ジャネの法則』。感覚的に6歳の1年は生涯の「6分の1」にもなるが、60歳の1年は「60分の1」でしかないからだ。確かに何もかもが目新しかった子どもの日々はゆっくり進んだ。桜井進氏の『人生は数学でできている』(中公新書ラクレ)は、そんな感覚時間を面白く解説している。ジャネの法則で計算すると4歳で物心がつき、平均寿命の84歳まで生きても、『人生の折り返し』年齢は18歳になる」(10月14日付「明窓」)。

時間感覚からすれば、「人生の折り返し」は、18歳という計算になるという。この論からすれば、ここにいる私たちのほとんどは、人生終わったも同然の年月を過ごしていることになる。かの「法則」によれば、一歳の乳幼児の一年は、60歳になると60分の一の時間感覚になって、あっという間に時が過ぎ去ると感じられるようになるという。百歳ならばいかばかりか。しかしこれは厳密に検証された科学的統計ではないから、経験論的に首肯される理屈であろう。但し、子どもの頃には、初めての経験(未体験)が多く、脳に新しい情報や記憶が刻まれるため、振り返ったときに長く感じる。他方、大人になると、日常生活がルーティン(繰り返し)化し、脳が情報を省略するため、記憶の切れ目が少なくなり、振り返ると一瞬で過ぎたように感じられる、という説明については、さもありなんと思わされる。

今朝の礼拝は、「永眠者記念日」の礼拝である。かつて、この礼拝堂で共に座り、共に祈り賛美していた愛する姉妹兄弟は、今は天の御国にあって、私たちの目からは見えなくなっている。しかし教会は天にもつながっていて、神の見えない絆に結ばれている。そういう思いで、このひと時を過ごすのである。礼拝説教で、牧師は会衆と向かい合って対峙する。あの人がどこに座っていたか、どのような姿でみ言葉に接していたか、表情やしぐさその他のことどもをも思い起こされる。これは牧師の余得であるかもしれない。以前、遣わされていた教会で、必ず親子で礼拝に集われていた方があり、仕事にお疲れらしくしばらくするとお父さんが舟をこぎ始める。するとお子さんが手を伸ばして、お父さんを突っついて起こそうとする、何とも微笑ましい光景であった。その家族の方々も皆、今は天の住人となっておられるが、温かな想い出を残して、旅立って行かれた。人間は、何を残せるのか、何が残るのかをつくづく考えさせられる。

今日はヨブ記に目を注ぐ。この書の結末部の書き出しの部分、これまで呼ぶと友人たちとの延々として議論に終止符、ピリオドを打つ如く、いよいよ神が語られるという舞台設定である。1節「主は嵐(口語訳「つむじ風」)の中からヨブに答えて仰せになった」。ヨブと友人たちとの果てしない議論は、「神義論」、まことの神がおられるのに、どうして人は不条理(災害やら戦争、あるいは病気や犯罪)に苦しむのか、という昔も、今も変わらない、切実な人生の問いに、神が何と語られるか、

ところが2節「これは何者か(自分を何様だと思っているのか)。(まことの)知識もないのに、(むなしい)言葉を重ねて(いちゃもんをつけて)/神の経綸(計画)を暗くする(覆い隠そうとする)とは。男らしく、腰に帯をせよ(真剣勝負をしよう)。わたしはお前に尋ねる、わたしに答えてみよ」。この口火切りの言葉は、聞く者の心をしぼませる。全てを奪われ、自身の身体もぼろぼろになって、ゴミ捨て場にすわり、苦しんでいる者に、実に情け容赦のない、火のような言葉が投げつけられるのである。

ヨブに対する神の言葉は、有無を言わせず力ずくで黙らせるような、まるで遠山の金さんのようである。「この桜吹雪が目にはいらねえか」。2節「これは何者か。知識もないのに、言葉を重ねて神の経綸を暗くするとは」。「すべてお見通しだ」こう言われては身もふたもない。ニュートンがその晩年に語ったとされる言葉がある「私は海辺で遊んでいる少年のようである。ときおり、普通のものよりもなめらかな小石やかわいい貝殻を見つけて夢中になっている。真理の大海は、すべてが未発見のまま、目の前に広がっているというのに」。

確かに科学的真理の発見というものは、ひとつの無知をもう一段階上の無知に引き上げる行為でしかない、というものかもしれない。しかし人間は、そういう真理の探究を止めないだろうし、踏みとどまり、諦めることはないであろう。即ち「お前は一生に一度でも朝に命令し/曙に役割を指示したことがあるか」と神は問うのだが、これに人間はどう応答するだろうか。おそらくこの問いに人間はこう答えたのである。「いつか必ず朝に命令する力を得る、曙に指示する権能をわれらもまた手にするだろう」。「朝」とは象徴的な用語である。一日の始まり、夜から昼へ、即ち、時間の始まり、更に一つの点から始まったとされる広大な宇宙の夜明け、やがて太陽が生まれ、地球が形作られ、そこに生命が宿る。そうしたすべてのものの始まりを、「朝」に喩えて語るのである。

12節「お前は一生に一度でも朝に命令し/曙に役割を指示したことがあるか」。「朝に命令する」、それができるか、と神は問う。しかし現代の世界で、人間は「朝」を自分自身の手で創り出し、その力を実際に用いているのである。神の創造のみわざは、「光」をもって始まったという。「闇の中に光があるように」。この言葉から、神羅万象、すべての事物が形作られていったと創世記は伝える。朝に命令するとは「光の創造」のこと、核兵器という形であれ、原発という形であれ、核分裂によってもたらされた「原子の光」を今や手に入れ、自分たちが創り出した「朝」に命令しているのである。今も、ことあらば、いつでも何度でも自分たちの朝に命令し、絶大は力を解き放ち、思うがまま用いることができるとうそぶいているのである。

しかし現実はどうか、「朝に命令できる」と豪語して、敵を威圧し、脅迫し、自分の思うがまま従わせようと目論んでも、結局のところ、ただにらみ合って虚勢を張っているだけではないか。10節「しかし、わたしはそれに限界を定め/二つの扉にかんぬきを付け/『ここまでは来てもよいが越えてはならない。高ぶる波をここでとどめよ』と命じた」。自らが作り出した「原子の光」を、完全に思うがままに、まったく自分たちの支配下に置いて、思い通りに操ることができているか。この国ではその光の残滓、核のゴミすらも捨て場所に苦慮しているのである。「想定外の事態」によって、朝が暴走を始めたならば、なす術もなく、手をこまねいているしかないような現状である。「わたしはこれに限界を定め、越えてはならない、荒ぶる波をここでとどめよ」、と命じる力を全く持っていないというのに、「お前は一生に一度でも朝に命令し/曙に役割を指示したことがあるか」。

毎日、神によってもたらされる朝は、この世界に何を生み出しているか。創世記の冒頭に、神は天地の創造を、まず「光」の創造をもって始められる。「神は言われた『光あれ』、すると光があった。神はその光を見て、良しとされた」という厳かな文言を、ヨブ記の作者も思い起こして、この個所を記したのであろう。いささか詩的に、ロマンティックな表現で。即ち14節、「大地は粘土に型を押していくように姿を変え/すべては装われて現れる」。新共同訳は口語訳に比べていささか味けない翻訳になっている。口語訳「地は印せられた土のように変り、衣のようにいろどられる」。なぜ人は高い山に登り、ご来光を仰ごうとするのか、その理由も併せて語られている。はるか聖書の時代にも、高い山の上で太陽が上るのを待っていた人が、夜明けとともに曖昧模糊としていた周囲の風景が「印せられた土」、まだ柔らかな土器に模様を付けるために、型押しをするように、明るくなるにつれて立体的に視界に立ち上がって来る。やがて光が射すと世界は一瞬の内に「衣のように彩られる」。それを見て、美しさに胸打たれた、ということである。人間の感性は変わる所がない。自ら作り出した「朝」を自画自賛し、思い上がり、他の人間を脅し、屈服させる道具をありがたがるのではなく、神のつかさどる朝の美しさに心震え、涙することの方が、なんと生きる幸いに満ちていることか。

最初に紹介した文章の続き、「芸術家や棋士、スポーツ選手は10代後半に頭角を現す人は多い。平均寿命が50歳代だった武家社会でも元服(成人)は10代後半で、同じ法則で計算した折り返し年齢の14歳が当てはまる。しかし、それが人生のピークではない。桜井氏は「他人と比べず、自分の過去とも比べない」生き方が大切とし、好きなことに熱中し時間を忘れると心の年齢進行は止まるとする」。

主イエスは、ある時、小高い山で人々に語られたという。「心の貧しい人々はさいわいである。神の国はその人たちのものである」。何も持つべきものがなく、心までも空っぽになている無力の人は、幸いだという。これを語った主イエスもまた、そういう人のひとりであった。最後に主はすべてをはぎ取られて、十字架に付けられ、血を流して死んで行かれた。そのいまわの言葉が福音書には伝えられている。「一緒に釘付けられている強盗に向かって、あなたは今日わたしと神の国にいる」、新しい朝、復活の朝を私たちに告げ知らされたのである。「他人と比べず、過去とも較べない、自分のたいせつに心を向ける」、神の国を思う、とはそういうあり方のことである。今は天におられる兄弟姉妹方のことを想い起す。それこそ、幸に至る道への道しるべであろう。