「小羊の血で洗って白く」ヨハネの黙示録7章2~4節、9~14節

この国のジャーナリストが次の文章を書いていた。「毎週土曜日、大学の法学部でジャーナリズムの授業を受け持っている。少人数のゼミ方式。各自が興味のあるテーマを選び、記事を半年弱かけて書いていく。残り3回となった授業内容をどうするか。学生たちに要望を出してもらった。今日はその中の一つ、『人を惹きつける文章を書くためにはどうしたらいいか教えてほしい』というリクエストに答えることにした。大学の授業で提出するレポートや答案は、無味乾燥なものが多く、読者の心をとらえるような文章を書く機会がないという。難しいようで、答えははっきしている。それは『大切な人のことを思いながら文章を綴る』ということだ。技術ではない」(渡辺周「人を惹きつける文章って?」2026.7.18)。

ある小説家も同じようなことを書いていた。「目の前に当人(登場人物)がいるような意識で書く」という。文書にしても話にしても、そこに生きて呼吸をしている生身の人間を前にしているという「具体性」が無くては、リアルさは持ちえないということだろう。そして、その全き欠如が、世界に悲惨をもたらしている。

「学生たちには、『自分が大切に思う相手』についてよーいどんで書いてもらった。人でなくて、動物でもOKにした。それぞれ、すぐに書き始めた。思い当たる相手がいるようだ。私は教室を出て、コーヒーを飲みながら一休み。締め切り時間に戻ってきた。『エブリバディ、書けたかー』だがみんな、私に見向きもしない。一心不乱に原稿を書いていて、「じゃまするな」と言わんばかりだ。私はあきらめて再度、教室を出た」。

現代の若者たち、学生に課題を出せば、AIの丸写しだ、コピペだ、という時代にあって、こうした問いに、一心不乱に取り組むという姿を見てどう感じるか。皆、誰それかの「大切に思う相手」がいるということ、さらにそういう誰かについて書くことが、どれほど人を真剣に、熱くするかということ、それは取りも直さず、そこに真実の自分もあるということなのだろう。こういう根源的な事柄が、まだこの時代、「三だけ」の時代も失われていないことを幸いに思う。実に「大切に思う相手」が誰かによって、その人らしさが現れるのである。

今日の聖書個所は、ヨハネの黙示録である。新約諸文書の中で最後の書物であり、「黙示文学」という特異なジャンルの書物である。旧約にもこのような表現や文体を用いて記された文書が散見される。エゼキエル書、ヨエル書、ダニエル書等である。天使や野獣等、非常に象徴的な事物を多く登場させ、幻想的、神秘的な雰囲気をかもし出している文学である。異様な象徴を多用するので、何を言っているのか、丸きり分からない、という感想を聞くことも多い。

美術界でよく使われる用語についてこんな解説があった。「興味深い」の意味は? 「鑑賞者がその絵の核心を理解できないとき、それを偽るために使う万能の言葉」なのだそうだ。しかし絵の核心は理解できなくても、その絵を「美しいと感じる」なら、どんなに訳の分からない絵画でも、その絵に込められたメッセージは、伝わっているのではないか。「美術」といわれるくらいなのであるから。ともあれ、黙示録は、絵の具ではなくて、言葉という画材によって、生き生きした信仰の絵を描きたいと願った著者の手になるものである。今日の私たちから見れば、いささか風変わりだが。そこに、美しいとか、心動かされるというような、そんなみ言葉を発見できれば、黙示録のメッセージを、しっかりと聞いたことになるだろう。

17節「玉座の中央におられる小羊が彼らの牧者となり、命の水の泉へ導き、神が彼らの目から涙をことごとくぬぐわれるからである。」、この美しい暖かなみ言葉で、ヨハネがこの手紙で語りかけようとしている相手が誰か、はっきりと記されている。それは今「涙を流している人々」である。キリストのゆえに、信じるがゆえに、生きるに涙している人々、「キリストのゆえに」、一義的には迫害を指しているだろうが、それをもっと広げて、主イエスの生き方、十字架の歩みに「涙する」、われとわが身を引き比べて、涙を流すということ、信じることは、この著者にとって、涙を流して生きていることなのである。そして彼らは自問自答したことだろう、この涙はいつまで続くのか。

ひとつ、黙示録を読む上で、知っておくほうがいいのが、この書物は、当時、地中海世界を席巻していたローマ帝国を、強く意識して語られている、という事実である。1世紀末のローマは、周辺の地域をすべて、自分の足元に置いて、そこから吸い上げた莫大な収益、不正な富によって、繁栄の絶頂を迎え、豊かさを享受していた。一方、黙示録の著者ヨハネと、この手紙が語りかけている諸教会は、ローマの周辺世界にあって、大帝国の強い影響(抑圧)の下に置かれているという図式である。ローマ帝国の統治のやり方は「パンとサーカス」であったと言われる。食糧と娯楽を与えれば、民衆は支配に易々と従う。これが「抑圧」の実際の図式であったが、これを現代も見事に手本にしている。

今日の個所の前の方に「神の刻印」という用語が見える。「刻印」、これは「印鑑」あるいは「封印」を意味する言葉である。公文書や契約書に、印鑑が押される。するとそれが正式の文書となって、公に認可されたり、法的効力を発する。さらに古代社会において、印鑑はただのしるしでなく、霊的な生命の象徴、その人の分身、力や権威のしるし、つまり呪術的な意味合いを持っていたのである。この国では、今もそのような古代的観念が息づいているがゆえに、生活に印鑑が必要なのである。

但し当時の人々が必要としたのは「神の刻印」ではなくて、「皇帝の刻印」である。この時代の人々は、いわば「皇帝の刻印」を押されて、生活を営んでいたのである。その印が無ければ、ローマ世界では旅もできなければ、取引、商売、仕事もできない。つまりすべて「皇帝の刻印」があって生活が成り立っていたのである。どういうことか。ローマが支配する世界では、すべて皇帝のために、皇帝に向かって、皇帝の土台の上に、生活が成り立っているのである。その具体的形態が「皇帝礼拝」・皇帝の彫像に向かってひざまずくことなのである。人々はどのような生活の営みを行うにも、皇帝の名によって、「皇帝こそ神の子」と公に唱えてから事をおこなったのである。仕事を始めるのも、食事をするのも、人間づきあいも、まず皇帝を賛美し、その恩恵に感謝し、皇帝に忠誠を表明して始まるのである。それこそが皇帝の刻印が押されるということであり、皇帝なしには生活の一切が成り立たなかったのである。

だから皇帝を拒否する者は、社会の一員とは見なされず、スキャンダラスな人々、国家に禍をもたらす禍々しい存在として排斥、圧迫されるのである。スキャンダラスとは「落とし穴を掘る人」という意味である。そういう人々は、市場に行っても、「お前には皇帝の刻印がない」として、挨拶をしてもらえない、口を利いてもらえない、食べ物も売ってもらえない、ぜんぜん無視される。ヨハネの教会は、そう言う「皇帝の刻印」の前に置かれている。どのようにその刻印が押されるのか。日曜日、週の初めの日、市民は皆、まず、共に集まり、皇帝を讃えてから、一週間の仕事を始めるのである。夏休みのラジオ体操みたいなものである。しかしキリスト者はどうしたか、その人の輪から離れて、教会に集い、ナザレのイエスを「キリスト」と誉め称え、礼拝するのである。町や村という限られた人間関係の中で、誰がどちらの者なのか、すぐに一目瞭然になってしまう。

「神が彼らの目から涙をことごとくぬぐわれる」、しかし、このみ言葉の裏側には、泣きながら毎日の生活を送っている人がいる、という事実がある。「皇帝の刻印」を拒否して、「神の刻印」に生きる人々、キリスト者にとって、涙のない歩みは考えられないのである。

そうではあっても、ヨハネは涙によって生活している人々に、その涙にはちゃんと終わりがあること、さらに巨大な怪物のようなローマ帝国も、決して永遠ではなく、人間の営みの中にある、人間の業の中のことでしかないことを告げる。いつか、自分自身の毒によって、自分自身の根を枯らし、根扱ぎにされる。セイタカアワダチソウのように。

主イエスは「悲しむ者は幸い」と言われた。それは「彼らは慰められるから」なのである。人は悲しむが、悲しみ続けて終わりと言うことはない。神はそこに、深い慰めを準備してくださっている。人間は生きるとき必ず涙する。涙しない人はいない。しかし、その涙が永遠に続き、その中に埋没するのではない。悲しみは慰められるのである。涙は拭われるのである。その涙のように、今、隆盛を誇り、一強の支配を続けるローマも、いつか倒れるのである。神の前に、悲しむ人の涙は拭われ、人の高慢は砕かれる。

先に紹介した文章の続き、「再度教室に戻り、10分ほどして原稿が出揃った。黒い目がクリクリしている豆大福の大きさのハムスター、少年の頃に両親が仕事で家におらず話し相手になってくれた隣のおじいさん、大切なライバルであり味方である友人――。それぞれの大切な相手なことを、読み手がシーンを想像できるくらい具体的に書いていた。情感がこもっていて、今読み返してもじーんとする。面白いのは、原稿を出した後でも『最後のところ書き直したから、改訂版の原稿を読んで』とか、『フィードバックがほしい』とか、自分の文章をより良くするための執着心が芽生えていたことだ。もちろん、自分が大切に思える人は限られている。でもだからこそ、人に会いに行って取材する。五感で相手と対峙し、『この人のために頑張ろう』『この人と同じつらい思いをする人は、これ以上出さない社会にしよう』と心のエネルギーを注入する。ジャーナリズムの役割は『権力監視』であり、権力の暴走を食い止める原動力は怒りだが、大切に思っている人の存在なしに怒りは込み上げない」。

次週は「永眠者記念礼拝」を守る。私たちの教会の信仰の先達者たちを、今もこの礼拝堂に座っているかのように、お茶を飲みながら語り合っているように、目の前にいるように思い起こしながら、ひと時を過ごす。それらの先達は「彼らは大きな苦難を通って来た者で、その衣を小羊の血で洗って白くした」人々である。苦しみのない人生はない、苦労とは無縁の生き方などないが、私たちにとっては、それはただ一人で苦しみに耐えて歩む生き方ではない。「小羊の血で洗って」、あの神の子羊、主イエスの十字架の歩みを目の前に、どこかでそのみ苦しみを自分自身も味わいながら、主イエスと共に歩む人生である。そこには愛があり慈しみが湧き出る、生きている時も死んで行く時も、その恵みを私も味わうのである。