「願う前から」マタイによる福音書6章1~15節

折角の黄金週間だったが、巣籠の中の生活が続いている。そんな生活の中で、楽しみや喜びを見つけられる、これは大した能力である。もし今、楽しみがあると言えるなら、どんな中でも生きられるのではないか。歌や俳句を作り始めた、といわれる方も多い。紙と鉛筆だけでできるのだから、初期費用は、ただ同然である。

歌人、俵万智さんの一首が話題となっている。いくつかの新聞の文化面にも取り上げられている。どんな歌か。「知らぬ間に鬼かもしれぬ鬼ごっこ東京の人と宮崎で会う」。子どもの楽しい遊びの「鬼ごっこ」、今は、知らず知らずに皆が楽しめない鬼ごっこをしているようなものだ。人と接するとき、ついつい疑心暗鬼になる。この場面を歌人は「鬼ごっこ」と言い表している。俵氏は、ある新聞の紙面にも、コロナ禍での人との関わりを「鬼ごっこ」とする一文を寄せている。宮崎市に住む俵さんの元へ、打ち合わせで東京から人が来るらしい。相手と距離を置き、窓を開けるが「なんとなく鬼あつかいしているような気まずさが生まれる」という。東京の人と会ったことを周りに話すと、緊張が走るときもある。「感染者の多い地域の人と接したという意味で、この場合は私が鬼なのだ」。

さて、こんな文章がある。「私は去年の暮から風邪かぜを引いてほとんど表へ出ずに、毎日この硝子戸の中にばかり坐っているので、世間の様子はちっとも分らない。心持が悪いから読書もあまりしない。私はただ坐ったり寝たりしてその日その日を送っているだけである。しかし私の頭は時々動く。気分も多少は変る。いくら狭い世界の中でも狭いなりに事件が起って来る。それから小さい私と広い世の中とを隔離しているこの硝子戸の中へ、時々人が入って来る。それがまた私にとっては思いがけない人で、私の思いがけない事を云ったり為したりする。私は興味に充みちた眼をもってそれらの人を迎えたり送ったりした事さえある」。

この文章は『硝子戸の中』(がらすどのうち)と題された随筆の書き出し部分である。この作品は、『こゝろ』と『道草』の間に書かれた夏目漱石の最後の随筆という。1915年(大正4年)1月から39回にわたって新聞に掲載された。この翌年、文豪は死去する。晩年の作家の目、日常の視線が鋭く伝わってくるような内容である。体調が思わしくなく、いつも家の中に閉じこもって生活している。そんな硝子戸の中から、外を眺めるような日々である。しかし作家は言う「いくら狭い世界の中でも狭いなりに事件が起って来る。それから小さい私と広い世の中とを隔離しているこの硝子戸の中へ、時々人が入って来る。それがまた私にとっては思いがけない人で、私の思いがけない事を云ったり為したりする」。そういう出来事に、興味が尽きない、と告白するのである。

私たちもまた、現在「硝子戸の内」にいるような生活を余儀なくされている。外に出れば「鬼ごっこ」、家に居れば「息が詰まる」、そういう中にあって、私たちの生きる術、生きるリアルとは、どういうものであるだろうか。そういう境遇の中に、聖書日課「日毎の糧」で今日の聖書個所が取り上げられる。何となく符合を感じさせるテキストである。

6節「あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところに居られるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いて下さる」。主イエスは、家に閉じこもって、誰かが来るのを静かに待っていた方ではなかった。町々を巡回して、人々の間を歩き回って、み言葉を伝え、食事を共にし、癒しのわざを行った。いわば非常にアクティブ(活発)な活動をされた方であった。ある時、家族の者たちが、人々の間に忙しく立ち働いているイエスを、取り押さえに来た、という逸話が伝えられている。家族の者たちは、主イエスの働きの価値を理解していなかった、ということではない。研究者は、「そういう活動をするなら、外に出歩かないで、自分たちの家でやってくれ」という意図だったろうと推測する。かつて「亭主元気で外がいい」という標語が盛んに口にされた。確かに家事をまったく顧みない亭主が、いつも家にいるのだが何もしない、というのは困りもんだろう。最近は「さんじのあなた」が推奨されているらしい。「炊事、掃除、育児」、即ち、三つの「じ」のできる夫である。外出ばかりして、まったく家にいようとしない家族の者に、少しは家のことを考えてよ、と言いたくなる気持ちは分かる気がする。

家族から捕まえに来られる位、そのように毎日毎時、活動的な働きをされた主イエスが、今日の個所のように「奥まった自分の部屋に入って戸を閉め」と言われる。実際、大勢の中で忙しく過ごされた後に、「寂しい所に行って、ひとり祈っておられた」と記され、そして同じように、人々の間で忙しく労してきた弟子たちが、師のところに戻って来た時に、「寂しい所へ行って休め」と言われるのは、働きの力の源がどこから湧いて来るのか、を私たちに伝えてくれている。そういう主イエスの生き方が、今日のテキストの背後に強く反映しているのだろう。このみ言葉に従って、教会には「退修(リトリート)」という習慣が伝統的に守られて来たのである。前向きに生きるためには、後ろ向きになる必要がある、飛行機が飛び立つ時には、滑走路を後ろに退くのと同じように、ということである。

しかしこのテキストは、「退修」の勧め、日常べったりになるのではなく、そこから一たび身を引いて、ひとり祈りに専念することだけを勧めているのではない。「偽善」という言葉がこの個所のキーワードの一つであるだろう。さらに「報い」という言葉も、この個所には散りばめられている。どちらもマタイ好みの用語であり、この福音書の著者の視点や価値観がよく反映されている。マタイは、「子どものようにならなければ、神の国には入れない」という言葉に象徴されるように、純粋であること、無垢であることの大切さを強調する。

皆さんは「偽善」をどう思うのか。ギリシア語の原意は「演技する、ふりをする」という意味である。かつてはこの国でボランティアしている人を、ひとくくりに「偽善者」呼ばわりする風潮があった。これも乱暴な決めつけであろうが、阪神淡路震災後に、「しない善よりする偽善」という言葉が語られるようになった。善行を為すことはその動機に関わらず何もしないよりも優れているではないか。「偽善」と批判して無関心になり、何もしないのよりましだ、というのである。主イエスが具体例として挙げている偽善者の振る舞い、「施しをする時に、ラッパを吹き鳴らす」ことや、祈る時に「会堂や大通りの辻に立って祈りたがる」というのは、確かに滑稽であるし、本気でこんなことをしていたとしたら、実に哀れである。

「偽善」の問題とは、その当人の心が純粋でない、とか、真っすぐでないとか、下心があるとか、という以上に、誰か人の目しか見ていないところこそが、問題なのである。「偽善」と対のように「報い」という言葉が語られる。人の目ばかり気にしているから、演技やふりになる。人の目に縛られて、がんじがらめになる。本来、信じることにおいては、取り繕うことなど空しく、ただ神の前に、なりふり構わず向き合うしかない、だからこそ自分が解き放たれるのである。ただ神にのみ「向き合うはずの「祈り」においても、人の目しかない、となれば、その人には、もはや神は共にいないのである。「偽善」は神を向こうに追いやってしまう。これが「報い」だと主イエスは言う。

「知らぬ間に鬼かもしれぬ鬼ごっこ東京の人と宮崎で会う」、この歌は、コロナ下の生活の現実を切り取っているばかりか、この国の人間の問題を、あらわにしている風情がある。誰かを鬼にして、悪者にして、その誰かのせいにして、非難して、自分は違うと安堵する。でももしかしたら「鬼」は自分自身かもしれないのである。「オニ」とは本来、「隠れている者」という意味だったとされる。その隠れたところで、神はわたしたちに出会われる。隠れたものを知られる神は、私たちの求めや願いを、話す前から、願う前から知っておられる。だから、取り繕い、演技し、ふりをすることなど、神の前には必要ではないのである。