説教『神と人と世に仕えつつ福音を宣べ伝える』(マルコ6:14~44 )

2017年10月8日         主日礼拝(教会修養会一日目)説教
説教『神と人と世に仕えつつ福音を宣べ伝える』(マルコ6:14~44 )

◎10月第二の主日を迎えました。先週の水曜日、10月4日に乾文男兄が天に召されました。享年83歳。実に熱心に礼拝に出席し、御言葉に聴き入り、また、聖書をよく読まれた方でした。その生涯を常に信仰によって歩んで行かれた兄弟の信仰にならい、その信仰を継承して行かねばと思います。さて、今日は、教会修養会一日目です。「これからの伝道・宣教・礼拝」というテーマで今日と今日の二日間、話を聴き、学び、語り合い、鶴川北教会のこれからの伝道・宣教・礼拝について共に考えて参りたいと思います。

 

◎まず、なぜ、このテーマを掲げたのか。それは日本基督教団だけでなく他教派も、また、日本だけでなく欧米諸国でもキリスト教信仰の低下が見られるからです。その原因としては、価値観・宗教・生活の多様化が進んだこと、また、原理主義者によるテロなどにより宗教は危険・疑問だと言う警戒感が広がっていることなどが考えられます。では、宗教は不要なのでしょうか。そうではありません。宗教は不安と恐れ、弱さを抱えた人間にとって必要なものです。見えざる神とつながってこそ人は真の平安に生きうるのです。

 

◎問題は信仰をどう伝えるのか、伝える教会はどうあるべきか、信仰者はどう生きるのかということです。今日は、修養会のテーマに沿って、いかに福音を宣べ伝えるかについて御言葉を通してお話いたします。今日、考えるべきこととして7つのことをお話します。まず第一に伝道と宣教の違いについてお話します。宣教とは、ギリシャ語のケリュグマの訳で「福音を宣べ伝えること」です。伝道とはミッションの訳で、福音を宣べ伝えるだけでなく、キリスト者としての生き方を育むこと、宣教・教育・交わり・奉仕など、すべてを含む総合的な業を指します。農業で言えば、種を蒔き、育て、収穫へと育てることと言えます。

 

◎第二に、では、宣べ伝える福音とは何でしょうか。福音とは「喜びの知らせ」という意味ですが、具体的にはどういうことでしょう。それはヨハネ福音書3:16~17に要約されています。「神は独り子をお与えになるほど世を愛された。独り子を信じる者が1人も滅びないで永遠の命を得るためである」。つまり、神様は独り子であるイエス様を十字架に架け、その命によって世のすべての人を救い、永遠の命をお与えになった。それほどまでに神は私達を愛してくださっていると言うことです。主イエスの十字架と復活の出来事、再臨における救いの完成の約束、そこに示されている私達への神の愛と救い、さらにその神の愛によってもたらされる自由と解放、奉仕的生、愛と平和に満ちた世界の到来、それを福音と言うのです。

◎では、なぜ、私達は福音を宣べ伝えるのでしょうか。それは福音を信じることによって大きな喜びが与えられるからです。喜びや幸せ、真理は他者に伝えたくなるものです。しかし、それだけでなく福音宣教は、神の命令・主の命令でもあります。内なる喜びと外なる神・主の命令。これが宣教へ押し出す原動力です。

 

◎その宣教の主体はだれでしょうか。それは人間、牧師や信仰者、教会と言えますが、よく考えると、私達人間や教会が宣べ伝える前に、既に神様が宣べ伝えていると言えないでしょうか。20世紀後半になって、教会に先立って神が宣教・伝道しているという「神の伝道(ミッシオ・デイ)」という宣教論が登場し、それが聖書の宣教・伝道を言い表していると言えます。先立つ神と共に私達は宣教・伝道しているのです。

 

◎では、その宣教・伝道の対象は誰でしょうか。それは、マルコ16:15「全世界に行ってすべての造られたものに福音を宣べ伝えよ」とあるように世のすべての人です。老若男女・民族・階級の差もなくすべての人です。世のすべての人は福音を必要としています。身近な人から遠い人まですべてが宣教の対象です。

 

◎では、いかに福音を伝道・宣教したらいいのか。これが今日の中心的な課題です。それはこれまでの宣教・伝道の反省に立ってなすべきです。19世紀の植民地型宣教・伝道の反省が必要です。その反省と悔い改めの上に立ちつつ聖書に基づく方法とは以下の4つの方法です。第一は「相手を尊重して」です。相手の人格・文化・宗教を尊重しつつ宣教することが大切です。第二は「一方的に与えるのではなく、相手から受ける・聴き、交流することによって」です。相手の持つ恵みを受け、分かち合いつつ、こちらの福音を宣べ伝えていくことが大切です。第三は「上からではなく下から仕えることによって」です。相手を見下すように上からの宣教は福音的ではありません。主が弟子達に仕えらえたように私達も足元にひざまづき、仕えつつ年供することが求められます。第四は「言葉だけでなく行動・行為・振る舞い・生活・生き方を通して宣教する」ことです。社会生活を含む私達のすべての生き方を通してこそ本当の福音が伝わります。

 

◎最後に福音を伝える私達はどこを目指して宣教するのでしょうか。それは終わりの日・再臨の時・救いの完成の時です。それまでは中間の時・教会の時・宣教の時です。神の国を待ちつつも、それを先取りし、それに備えることが求められます。私達は救いの完成の時を目指して神と共に宣教と伝道に励むのです。です。