11月ともなると、はや、次の年のこと、来年の計画や展望が語られるようになる。かつてラジオ番組の「こども電話相談室」に寄せられた小学3年生の質問、「諺で『来年のことを言うと鬼が笑う』と言うのはなぜですか? 」。これに永六輔氏が回答した「鬼っていつもコワイ顔をしてるでしょ、笑ってる鬼なんて見たことないよね。あのいつだってコワイ顔をしている鬼が、ウッカリ笑ってしまうということは、どういうことかっていうと、あんまり先のことを言うと、あのコワイ顔をしている鬼も笑ってしまうから、まず今日のこと、まず今日ですよということなんですよ。そんなに先の予定を決めたって世の中、そうはいかないよっていう意味なんです」。
「コワイ顔をしている鬼も(思わず)笑ってしまう」ことがある。先のこと、来年はおろか明日のことすらはっきりとはおぼつかないのである。「まず今日のこと、まず今日ですよ」、なのだが、問題は今日何をするのか、どう生きるのか、ということだろう。
さて今日の聖書個所は、イサク誕生の前史、プロローグを語る伝承である。真昼時に、アブラハムが天幕で寛いでいると(これは聖書の人々のごく日常の生活風景である)、目の前に三人の見知らぬ旅人が立っているのを見る。アブラハムは彼らに目を留めて、招き入れて木陰で彼らをもてなす。現在でも砂漠の遊牧民、ベドウィンは、客人を懇ろにもてなす習慣があることが知られているが、旧約の律法にも、「旅人をもてなす」ことが、イスラエルの行うべき徳として命じている。これは新約にも反映し、遠方からはるばる旅をして訪れる「さすらいの伝道者」を、大切に受け入れて、もてなすことを勧めている。その理由として、律法は、「あなたがたもかつては寄留者(ゲール:よそ者)であった」ことを上げているが、遠方からの旅人は、新(珍)奇な情報の提供者でもあった。彼らのもたらす未知の出来事、その知らせは、自分たちの安心、安全を判断する基となり、なおかつ娯楽でもあった。情報の大切さを、古代人も、きちんと認識していたのである。
アブラハムのもてなしの様子を見ると、上等の子牛一頭をつぶして料理し、さらに小麦三セア、つまり22ℓもの小麦粉を、発酵させずにすぐに焼くことのできるパン菓子(スコーン、パンケーキ類)にして振舞ったという。その質量たるや破格なもてなし、と言えなくもないが、そもそも「おもてなし」とはそういうものである。「ぶぶづけ」ではいかにも物足りない。ヘブライ人への手紙にはこう記されている、「旅人をもてなすことを忘れてはなりません。そうすることで、ある人たちは、気づかすに天使たちをもてなしました」(13章2節)。確かにこの解釈通りだろう。アブラハムが神の御使いと見抜いて、ここぞとばかり計算づくの大盤振る舞いをしたわけではないだろう。但し、日も高い昼日中に、炎天下旅をするというのは、尋常のことではない、よほどの事情があるのだろうと、しかも自分の天幕の真ん前に立っている、尋常ならざるものを感じて、アブラハムはつい彼らに声を掛けたというところだろう。そしてそれと知らずに声を掛けて、そこから生じた出会いによって、アブラハムとサラは、彼らの人生を左右する決定的な事柄を告げられる。つくづく人生とはそういうものだろうと思う。良くも悪くもそういう予想外の出会いで、どれほど人生が豊かにされることか。
この段落のキーワードは、「笑う(イツハク)」である。前章15節、アブラハム契約の結びに、神は子どもの誕生を彼に告げている。その場面で、アブラハムは「笑う」のである。17節「アブラハムはひれ伏した。しかし笑って密かに言った」。アブラハムは老練の徒である。ひれ伏して、表情でそれと悟られないように、顔を伏せて、しかし嘲り笑うのである。人間の本性を何と的確に切り取っていることか。ところが、神はこの彼の態度に、こう告げる。「その子をイサク(彼は笑う)」と名付けなさい。見えないように、見られないように、と人間は本当の所を包み隠して、本心を誤魔化そうとするが、神はそれを逆手に取って、み言葉を実現されるのである。
そして今日の個所で、み使いが同じことを、再び告げる。「『わたしは来年の今ごろ、必ずここにまた来ますが、そのころには、あなたの妻のサラに男の子が生まれているでしょう。』サラは、すぐ後ろの天幕の入り口で聞いていた」。そして彼女も夫と同じく反応するのである。「サラはひそかに笑った。自分は年をとり、もはや楽しみがあるはずもなし、主人も年老いているのに、と思ったのである」。
ところでこのアブラハムとサラの「笑い、イツハク」はどのような質のものか。もちろん喜びや歓喜、望みにあふれた明るい笑いではない。いわば「歪んだ笑い」と言えるだろう。この国には、さまざまな笑いを表す機微にあふれた言葉がいくつも存在する。愛想笑い、薄笑い、忍び笑い、高笑い、苦笑い、思い出し笑い、照れ笑い、せせら笑い、爆笑、微笑、失笑、冷笑、嘲笑、「三年片頬(さんねんかたふ)」という言葉もある。薩摩武士は謹厳実直、三年に一度、それも片頬をすこし動かす程度しか笑わない、という意味だそうな。それだけ人間の笑いは、一口に「笑い」といっても微妙なのである。ところが旧約のヘブライ語には、「笑い」を表す用語は多くはない。ほとんどの場合「笑い、イツハク」なのである。
サラの心を見抜いて、み使いはアブラハムに言う「なぜサラは笑ったのか。なぜ年をとった自分に子供が生まれるはずがないと思ったのだ。主に不可能なことがあろうか。来年の今ごろ、わたしはここに戻ってくる。そのころ、サラには必ず男の子が生まれている。」サラは恐ろしくなり、打ち消して言った。「わたしは笑いませんでした。」主は言われた。「いや、あなたは確かに笑った。」
「笑い」は本来、神のみわざであって、聖書にあっては、神はひとえに「笑う」方なのであり、さらに人間に笑いをもたらす方なのである。成程、人は単純明快に、手放しの笑い、掛け値なしの笑い、破顔一笑しながら、いつも生きているわけではない。しばしば「歪んだ笑い」を浮かべつつ、人生を歩んで行くものだろう。しかしそこにも神は手を伸ばされる。サラに対して語られた主の言葉、「いや、確かにあなたは笑った」は、決して、不信仰のサラを断罪する裁きの言葉ではない。「あなたは笑い続けるだろう、しっかりと笑い続けなさい」という不思議な意味合いの言葉なのである、つまり「わたしは笑いません」と自分の心のまことを見抜かれ、恐れて頑なになって、かちこちに強張った表情のサラに、「大丈夫、あなたは笑い続けるだろう、しっかりと笑い続けなさい」という暖かな励ましに近い言葉なのである。
「笑う」という言葉の語源について、民俗学者の柳田国男は、「笑う」は「割る」から派生した言葉だと主張する。「割る」即ち、根っこ(語根)に、固く結んだものが割れる、ほころぶ意味が潜むというのである。だから顔をほころばせることを笑うというのであると。因みに花が咲くことも、笑うと言う。つぼみが割れて開くことになるからであろう。分別意識にかちこちに固まっている心が、割れて開かれる時に、人は笑う。善だ悪だ、正義だ虚偽だ、是だ非だ、と分別顔して凝り固まっているのが人間の常の心である。それが割れて開かれて、神の示される広い世界にふれると、笑いが出るということかもしれない。
子ども達の笑顔、笑い声は、大人の心をも解きほぐす力を持つ。但し、遊びに興じる子どもたちの表情、笑顔ではあるのだが、その笑顔が、私たちの心を鉛を入れたように重くする笑いもあるだろう。ひとつのショート・ビデオを見ていただく、「ガザの子どもたちのお葬式ごっこ」、子どもはどんな所でも遊びを見つけて、楽しもうとする。しかし…幼い彼らは「殉教者!殉教者!」と叫びながら、人形を載せた担架を運んでいる。
クリスマスに主イエスがお生まれになった。考えてみれば、これほどおかしな出来事はない。救い主が宮殿ではなく家畜小屋に誕生し、それも寝かせるベッドがなかったから飼い葉桶に寝かされ、大工として手に豆して働き、ついには、十字架に釘付けられ、血を流されて亡くなったという。これが「まことの救い主」だという。そもそも神の子が、人となってこの世に生まれたということ自体が、何と愚かしく信じられないことか、私たちもまた、サラの笑いのように、歪んだ笑いを笑いつつ、生きているのだろう。しかし歪んだ笑いでは、喜びは生まれて来ない。しかし神は、その歪んだ笑いを、まことの笑い、「腹(心)の底から笑う」、に変えて下さった。サラの人生の時にも、私たちの人生でも。
「わらい」と題された金子みすゞ氏の作品がある。「それはきれいな薔薇いろで、芥子つぶよりかちいさくて、こぼれて土に落ちたとき、ぱっと花火がはじけるように、おおきな花がひらくのよ。もしも泪がこぼれるように、こんな笑いがこぼれたら、どんなに、どんなに、きれいでしょう」。一カ月余りでクリスマスを迎える。クリスマスに赤んぼうの誕生を通して、神はこんな笑いを届けてくれるのである。ガザの子どもたちの「お葬式ごっこ」が、明るい笑いへと変えられるように、私たちの心も、希望が吹き込まれて笑顔が生まれるようにそれを今年も心深く祈りつつこの時を過ごしたい。
