「生き方には『競争』と『修行』の二つがある。日本人は子どものころからずっと競争させられている。同学齢集団の中で、相対的な優劣を競わせて、評点をつけて、格付けをして、スコアの高い子どもに褒賞を与え、スコアの低い子どもには処罰を与える。そういうルールで競争させると、子どもたちは必死になって自分の能力を高めようとする。だから、子どもの潜在可能性を開花させるには、競争させるのが一番効果的な方法なのだ。多くの人がそう信じている」(内田樹「競争と修行」)。
幼稚園の運動会で、リレー競技は保護者が最も熱狂する種目である。前に乗り出して大声で声援する親御さんの姿は、「必死」の観があるが、肝心の子どもたちは、走ること自体うれしく、笑顔で、楽しんで走っているように見える。どうしても大人は「競争」にこだわるようだ。おそらくそれは、自分たちが受けてきた教育のやり方に起因しているであろう。スポーツは、勝敗を競うことで熱中し、熱狂する装置であるから、それによって人生のひと時のカタルシス(気分転換))になれば、大きな意味を持つだろうが、生きることをすべて「競争」に還元させてしまうのは、いかがなものだろうか。この国で「競争」は、一種の信仰のドグマように信じられている、それは人生をよりよく生きるための、絶対条件であるかのように、である。少子高齢化の時代に、「競争」の持つ意味が問い直されるのでああろうか。
今日はヨハネ福音書の描く「最初の弟子の招き」の物語である。共観福音書とは大分、趣が違う。共観福音書の物語は、よく「弟子の召命」と題されている。主イエスがイニシアティブを持って、ガリラヤ湖で網の手入れをしていた漁師たちに命令するがごとき声を掛ける。「わたしについてきなさい」、すると彼らは網を捨ててイエスに従った、という。ところがヨハネは違う。相手がどんなに素晴らしい先生、師匠だとしても、人と人との出会いは、そんなに単純なものではない。いろいろな齟齬や反感や逡巡、さらに疑いをも含まれる。魂のぶつかり合いがそこになければ嘘だ。メシア、キリストとの出会いもまた、そういうものではないか。だからヨハネは最初の弟子たちとの出会いの場面も、両者の問答から始めるのである。
洗礼者がイエスを「見よ、神の子羊」と呼ぶ、「この人こそ神の人だ、メシアだ」、と証言するのである。すると37節「二人はイエスに従った」とあるが、この「従う」は、信頼してお供をする、弟子になるということではない。「面白そうだからと興味をもって、後について行った」。興味本位である。その彼らに主イエスが「振り返り」、声を掛ける。「何を求めているのか」。この行りは福音書の記述の中でも最も印象的な場面の一つである。後ろからこっそりついて行った弟子たち、未知なるこの「神の子羊」に何とか接触したい。だが、気後れもするし、中々声を掛ける勇気ときっかけが得られない。すると当の主イエスの方が振り向き、声を掛けてくれる。「何を求めているのか」。ここにはヨハネの信仰観が深く描かれていると言ってよい。このナザレのイエスと呼ばれる輩が、何者か、どんな方かは、よく分からない。それでも心惹かれる何かを秘めている。だから関係ないや、と離れることもできない。そんな中で、彼の人の方から声を掛けてくださった。「振り向いて」という一語に、ヨハネの信仰観の全てが込められている。神は、主イエスは、私たちを振り向いてごらんになる方なのである。
「何を求めているか」と問われて、「先生、どこに泊っておられるのですか」。滞在場所について、師と仰ぐべき人物に問うのは、古代では実に礼にかなったことだった、と説明される。その人物のいる所に、自分から出かけていき、そして「三顧の礼」でもって、教えを乞うのである。その人が今生きている場所、人となり、仕事、生活の根城をつぶさに見ることは、その人がどのような人格であるのかを知る、またとない機縁となるだろう。何より「共に」生きて、起居を共にして見なければ、見えないこと、分からないことは多いものである。
しかしこの「泊る」という言葉は、ヨハネ福音書にとっては、キイワードともいえる用語なのである。この言葉は「泊まる」の他に、「つながる、留まる」と訳すことができる。15章5節には、「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である」という主イエスの言葉がある。そこに、「人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ」とある。その「つながっている」がこの「泊まる」という言葉なのである。「関係、絆」という意味を持つ用語だから、「泊る」、「寝食を共にする」という意味が派生する。
繋がりの中で生きるのが人間である。関係の中で形作られるのが人生である。その人が誰に繋がり、どことパイプを持っているかで、その人の力や、この人物が頼りになるかどうかが分かるのである。世間で「人脈」と言われる。その脈絡を通して、自らに利益が運ばれてくる。古代では誰につながるかで、自分の身の浮き沈みが左右された。努力や能力以上に、「繋がり」こそが重視されるのである。「どこに泊っておられるのか」、という問いは、「あなたは誰に繋がっているのか」という問いと、同じなのである。今も人は色々なつながりの中で生きている。親に繋がり、学校に繋がり、仕事に繋がり、友人に繋がり、家族に繋がる。しかしどの繋がりも、ほんの束の間であるし、どんなに大切で、頼りになる人でも、いつかは切れて失われ、永遠ではない。
しかし、このナザレのイエスと呼ばれる方は、どうも人間に繋がっている方ではない。いや人間の繋がりやしがらみ一切を、全く欠いているようにも見える。ただ神と親しく、神とまさにひとつに繋がっている方なのである。この方が、この方の方から、私たちを「振り返り」、「来て見なさい」と言われる。私たちの人生は、このみ言葉の前に立っている。
「競争でしか人間は成長しないという思い込みが間違っていたのだ。東アジアでは久しく人間の成長プロセスは『修行』というかたちで行われてきた。師や先達に就いて、その教えを受けて、学び、技芸を会得する。誰とも相対的な優劣を競わない。ただ、先達の背中を見ながらひたすら『道』を歩む。比較する相手がいるとすれば、それは競争相手ではなく、『昨日の自分』である。自分が昨日から何歩『道』を先に進んだか。それだけが問題である。誰とも勝敗強弱巧拙遅速を競わない」(内田樹)。
人生は「競争」という価値観の支配する中では、すべての関係は競争に勝つための手段であり、方便である。負ければゲームは終了する。しかし「若者も倦み、疲れ、勇気もつまずき倒れる」(イザヤ40:30)のである。その歩みの中にあって、「振り返り、言葉をかけ、来てみなさい」と言われる主がおられる。その方は「後の者は先になり、先の者は後になる」という、競争とは無縁の、競争をひっくり返される方なのである。
