最近、次のニュースが伝えられた。「ロシアによる軍事侵攻が続くウクライナで、大学生たちによる日本語の弁論大会が7年ぶりに首都キーウで開かれ、学生たちが戦争の中での経験や思いを日本語で語りました。新型コロナウイルスや軍事侵攻の影響で開催が見送られてきた弁論大会は(10月)16日、キーウ国立大学とウクライナの日本語教師でつくるNPOの主催で7年ぶりに開かれました。国立大学の地下シェルターを会場に開かれた大会には日本語を学ぶウクライナの学生あわせて11人が参加し、それぞれ5分ほどのスピーチを行いました」。戦時下での開催、ということで「大学の地下シェルター」を会場に行われたという。学生時代は、人生の中で最も自由に、自分の思いを拡げて考え、行動できる時期であろう。「地下シェルター」、戦争によって押さえつけられた若者の心の息苦しさが、伝わって来る。そこで学生たちは何を語ったのか。
「アナスタシア・クリボノスさんは『家』をテーマにスピーチし、ロシア軍にふるさとの南部ヘルソン州のまちを占領され、家に帰れない自身の経験を語りました。このなかで『安心して「ただいま」と言える場所があることは、決して当たり前ではありません。私にとって家とはこの4年間、ずっと帰りたいと願い続けている場所です。その場所でもう一度心から「ただいま」と言える日が来ることを信じています』と語りました」(10月17日付NHK ONE)。狭いシェルターに籠っているような日々から、元の日常、当たり前の生活に戻りたい、それを「ふるさと」、「安心して『ただいま』と言える場所」という言葉に込めて口にしていることが伝わって来る。
今日の聖書の個所は、旧約の中でも有名な物語のひとつ、「ノアの箱舟」の話の結末部分である。聖書ばかりでなく「大洪水」の伝説が、あらゆる国々、世界各地に伝承されていることは、やはり人間の生活が「水」抜きには成り立たないからである。人や家畜の生命を支える飲み水として、また田畑を潤す灌漑のための水、それらは大いなる収穫をもたらす有難い天の恵みであるが、その生命を支える水が「洪水」となってほとばしり、あふれかえれば、家屋や家財、田畑すべてを押し流し、生命をも情け容赦なく奪う暴虐な力を発揮するのである。今も、この国で、あるいはいくつもの国々で、水による大災害は後を絶たないし、さらに地球温暖化によって集中豪雨による水災害の被害は、さらに深刻さを増している。
文明の発祥地、メソポタミアやエジプトには、ティグリス、ユーフラテス、あるいはナイルと言った大河が、今も滔々と流れている。毎年、初夏になると雪解け水によって河川は水量を増し、やがて定期的にあふれかえり、洪水をおこし、その流域一面を覆う。ほとばしる奔流は、上流から豊かな養分を運んで耕作地を覆い、土壌一面を豊かに肥えさせるのである。まさに恵みの水である。ところが自然の力というものは、人間の思い通り、目論見通りには事を運んでくれない。適度な洪水なら良いけれど、田畑どころか町全体に牙をむき、大洪水が起こり、あらゆるものが水につかり、家屋は流され、多くの家畜や人間の生命が奪われる事態も、時として発生するのである。世界最古の物語、メソポタミア、シュメールに伝えられた『ギルガメシュ叙事詩』にも、大洪水の物語が伝えられているのは、大洪水が生命や生活を容赦なく奪い、押し流す、忌まわしい記憶と結びついているからである。そして古代文明の宗教は、自然の暴虐な力を、何とか平穏にコントロールしたいという切なる願いから生じて来たと言えるだろう。
聖書の洪水物語、創世記の「ノアの箱舟」の話も、メソポタミアに古くから伝承されてきた「洪水物語」に触発されて、語り出されたと考えられている。ところが聖書が問題にするのは、人間の都合の良いように、大自然の営みを支配することではなくて、自分たち人間の生活だけでなく、生きとし生けるすべての生き物の幸いについて、なのである。どうやってみても、常に脅威にさらされ、大きな自然の諸力に翻弄されるのが、この世の生命なのである。その私たちが、人も動物も、すべての生き物が、まことの安息を得られるところは、一体どこにあるのか。
聖書の記述によれば、ノアとその家族、またあらゆる動物たちが乗り込んで、大洪水から救い出されたとされる船は、帆もなく舵もなく、漕ぐためのオールさえついていない、巨大な木の箱のような形であったという。窓もない四角い閉ざされた狭い空間という形状である。これは『ギルガメシュ叙事詩』にも同様の記述がある。「ただの小さな箱」、もちろん出入り口はついているが、それとて中からは開けることができなかったらしい。「(皆が乗り込むと)神が後ろを閉ざされた」と記されている。入ったならばもはや人間が自由に出入りできないのである。これはどちらかといえば「船」というよりは、「シェルター」に近いイメージだと言えるだろう。
今、全世界の人々が恐れているのは、核兵器が使用される時のことである。ある国の人々は、シェルターに避難し、ある国の人々は、地下街や地下鉄に逃げ込み、危急の際の苦難を何とか逃れようと備えをしている。それで緊急避難できてひと息つけたとしても、外の世界はどうなっているのか。果たして、再び、元の生活を取り戻すことができるのか、再び、皆とおしゃべりし笑い合い、一緒に飲み食いし、子どもたちの成長を喜び、楽しむことはできるのか。箱舟を出ることのできる日は、果たしてもう一度やって来るのだろうか、「ノアの物語」が伝えることは、現代の私たちの世界とも無縁ではない。
シェルターに入れば、食料や飲み水等の生命を支える、最低限の生活必需品は積まれているだろう。但し、外の世界のことは全く分からない。外の世界の有様がどうなっているのか、周囲の状況やこれからの見通しがまったく立たず、情報がないところでは、たとえ生命維持のための飲み食いができても、また押し込められているのが自分一人ではないとしても、大きな不安が生じるであろう。一体、いつまで、こうしていなければならないのか、一体いつ、この狭い場所から、外に出てゆくことができるのだろうか。そして今度、この狭いシェルターの扉が開かれたなら、そこにはどのような世界が広がっているのか、一切不明なのである。閉じ込められている期限がきちんと決まっているなら、何とかカレンダーに×印を付けて行って、指を折りながら、解放の時を、希望をもって待つこともできるだろう。しかし、全くその日がいつか、いや、そんな時が果たしてくるのか、まったく見通しがたたない生活で、人は頑張り続けることができるのだろうか。
最初に紹介したウクライナの日本語弁論大会で語られたもう一人の学生の言葉に耳を傾けたい。「オリハ・イグナテンコさんは『夢』をテーマにスピーチした。夜間に防空警報を聞くことなく朝を迎えることが戦時下での夢の1つになったが、本当の夢はウクライナの魅力を日本に伝えること、『わたしには一つの大きな夢がある、それはただこの戦争を生き残ることではない、いつかウクライナのことを日本の人たちに伝えられる人になることです。日本語は簡単ではありません、勉強していて大変だと思うこともたくさんある、それでもいつか日本語でウクライナについて話したい』」と自身の心に内にある「夢」を生き生きと語るのである。「ただ戦争を生き残る」ことではなく、ウクライナのことを日本の人(未知の人々)に、直に日本の言葉で、伝えたい。彼女は、シェルターに押し込められたような生活の中で、ここを出たなら何をしたいのか、一番の望み、目的、「夢」を具体的に心に抱いて、それによって自分を励まし、心を支えているのである。
私たちはどうか、今、警報が鳴り、シェルターに飛び込まなくていい毎日の生活を送っている。こうした平安の日々が、ひっくり返される事態は生じないのか、戦争でなくても、この国は世界の自然災害の10%を担保している、と言われる。考えてみれば、人間の地上での一生というものは、絶えず何かに脅かされて、大災害や病気への不安、戦争や紛争への危惧、それ以上に日々の生活を立ててゆくことの心遣いに、見えないシェルターに暮らしているような有様である。そしていつか「死」によって、この世から外に出てゆく時に、私たちはどのような希望を抱くことが出来るのか。
ノアの物語で出来事の終わりに、箱舟シェルターに押し込まれている、ノアの家族と動物たちに対して、神の呼びかけの言葉が響いたという。8章16節「さあ、あなたもあなたの妻も、息子も嫁も、皆一緒に箱舟から出なさい。すべて肉なるもののうちからあなたのもとに来たすべての動物、鳥も家畜も地を這うものも一緒に連れ出し、地に群がり、地上で子を産み、増えるようにしなさい。」このように呼びかける神の声が響き、確かな神の言葉が告げられる。「そこで、ノアは息子や妻や嫁と共に外へ出た。獣、這うもの、鳥、地に群がるもの、それぞれすべて箱舟から出た」。
狭く閉ざされたシェルターの中で生きているノア、その家族、そしてたくさんの動物、生き物に、神は言葉を語られる。「さあ、あなたもあなたの妻も、息子も嫁も、皆一緒に箱舟から出なさい」。これは「死」によってこの世からあの世へと旅立つ時の有様が、二重写しにされているだろう。私たちの終わりに、この世の旅の終わりに、神の言葉が響くという。「さあ、箱舟(シェルター)から出なさい」。その約束のしるしとて、神は遥か天に「虹」を掛けられたという。地上と天、人と神とつなぐ階(きざはし)として。天と地を結ぶきずなが架けられる、その約束は、神がそのひとり子をこの世に送られたことで、現実となったのである。「神はそのひとり子を賜ったほどに、この世を愛された、それは主を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の生命を得るためである」(ヨハネ3:16)。
