「行き着かぬ内に」マタイによる福音書28章11~15節

江戸時代後期に記された書物、『甲子夜話(かっしやわ)』の中に、こういう事件への言及がある。この書物は肥前国(現在の長崎県)平戸藩第九代藩主の松浦清(号は静山)により書かれた随筆集である。話題は時事問題、政治問題から社会風俗、幕府や他藩の逸話、人物評、海外事情、果ては魑魅魍魎、妖怪話にまでに筆がおよび、心の赴くまま勝手放題に話を進めている趣がある。こうある、「江戸のむかし、(花見か何かで)出店でにぎわう土手の通りで、武士と修験道者(山伏)がけんかを始めた。武士が刀を抜こうとすると、修験者が何やらぶつぶつ呪文を唱える。すると不思議なことに、刀はさやに納まったまま抜けなくなったのである。出店の商人たちも皆、何事かと店から出て来て、野次馬よろしく見物に集まってくる。ますます怒り心頭の武士が、ようやく刀を少し引き抜いたかと思えば、また修験者の呪文で刀はさやに戻る。衆目の面前で恥をかかされた武士はあたふたと退散して行った。さてこの後どうなったか。ひと笑いした野次馬、店主たちが店に戻ると、商品がすっかり盗まれていた。むかしも今も人をだます悪知恵は巧妙である」。

現代の詐欺事件の特徴は、「劇場型」であると言われる。複数の人間が、芝居を演じる役者のように役割を分担し犯罪を行うのだが、江戸時代に既に、皆が見ている面前で、一芝居をかまし、大勢の人々を騙すという手口があったのか、とあきれる思いになる。もっともその頃の庶民の娯楽の最たるものは「芝居見物」であり、人の興味関心に付け込んでの犯行というのは、随分、巧妙な悪知恵に富むものと言えるだろう。

数年前、ある国の大統領の言論について、就任最初の1年間に虚偽や事実関係で誤解を招く主張を2140回繰り返したと新聞に報じられた。1日当たりの平均は6回近く。同紙は演説や声明、ツイッターなどを「ファクトチェック(事実確認)」してきた。虚偽の主張がなかったのは過去1年間で56日だけ。その多くがゴルフにいそしんでいた日だという。返り咲き二期目の現在、自分に都合が悪くなる報道がなされると、相変わらず「フェイクだ」と主張している。事実(ファクト)はどうあれ、大きな権力というものは、常に虚偽と二人連れの歩みをすることが、歴史が物語るところではある。

今日の聖書個所は、エルサレムの大祭司、ユダヤの最高権力者が、「フェイク・ニュース」を拡散させた、という実に現代的と言えば現代的、こうしたことが当たり前に起こっているのが、人間の歴史なのか。実際に、こうした噂が、ユダヤ人の間で人口に膾炙していたというのは、その通りなのだろう。懐かしくふれあって来た人が、突然不条理にも取り去られ、奪われていった。しかも最も痛ましい十字架に釘付けられ、苦しみながら亡くなった。その時の喪失感、寂寥感、悔しさを、私たちも直に想像できるだろう。そういう空しさの中で、せめてその亡骸だけでも身近な所において、親しかった者たちと心置きなく永の別れを告げたい、これは「人情」というものである。

紀元前後のエルサレムの遺跡が調査され、十字架刑に処せられた人々の墓(穴)が発掘されたことがある。一か所におびただしい遺骨がまとまって発見されたことから、十字架刑に処せられた人々がかなりの数であったこと、そしてその遺骸はそのままさらし者にされ、その後はゴミを捨てるように、一緒くたに穴の中に投げ込まれるのが常であったことが確認された。そういう状況では、普通なら遺体を盗み出すなんてことはできない。主イエスの遺体は、サンヒドリンの議員アリマタヤのヨセフの手に下げ渡され、日没が迫っていたこともあって、大急ぎで墓に葬られたと伝えられる。これは極めて例外中の例外の事態であったと言えるだろう。

大切な人が不条理に取り去られ、奪われ、失われるという体験、例えば、東日本大震災で被災し、愛する人を失った人たちがこう語る、亡くなった人たちの後ろ姿を見かけた、夕暮れの街角に立っているのを見た、玄関から入って来た気配がした、好きだったおもちゃが突然動き出した。こういう当事者の言葉を聞いて、「それは気の迷いだ、幻を見たのだ、思い込みだ」と一方的に断ずることは出来ない。故人に出会った、死者の言葉を聞いた、語り合った、こういう経験は、昔話の戯言ではなくて、現代でも人間の実体験として語られるのである。

しかし、こういう話は、人々の心に不安を投げかける。死んだはずの人が、実は生きているのではないか、こうした言説は、人間生活のさまざまな極面に、摩擦や動揺が生じ、混乱やパニックが起こす恐れもはらむのである。人間は、ある出来事について、見通しが効かなかったり、納得することが難しかったり、中ぶらりん、中途半端に放っておかれると、居心地が悪く、心が落ち着かないものだ。一応の合理的な説明がなされれば、事実はどうあれ何となく安堵する、ということがある。因果応報の論理などは、その典型である。

主イエスの復活の出来事を巡っても、それと同じような動きが起こっていたことが、今日のテキストから知れるのである。墓を守っていた番兵たち、彼らは祭司長たちの下に、神殿警護に当たっていた下役達であろう。番兵が配された経緯は、27章64節以下に詳しく記されている。ご丁寧に、墓に封印までしたという。この封印は、大地震で蓋石が転がった時に外れたのだが、その時には既に、墓は空で、主イエスの身体は見当たらなくなっていたのである。

ある意味では、女たちと共に復活の証人ともなった番兵たちは、さすがによく訓練されている者たちである。天使のお告げを聞いて、走って急ぎ帰った女たちよりも早く、祭司長の下へとご注進に及んだ。4月は新入社員たちがいろいろ研修を受ける時であるが、初めに厳しく指導されることは、「ほうれんそう」と言われる。菜っ葉のホウレンソウではない、「報告、連絡、相談」のことである。昨今ではさらにそれに「おひたし」加わるのだという。「ほうれんそう」を受ける側が、「おひたし」で返すのである。即ち「おこらない、否定しない、助ける、指示する」で対応せねばならない、という。

番兵たちは、実に機敏に行動し、女たちよりも先んじて上司に「ほうれんそう」をしている。ちゃんと訓練された忠実な兵隊たちなのである。全員が夜中に眠りこけて、誰も何も気づかなかった、ということは、およそ考えにくい。そんなことをしていれば、職務怠慢の廉で、厳しく責任を取らされるだろう。だから青くなって一目散に、主人のもとに「ほうれんそう」に及んだ次第なのである。番兵たちに「ほうれんそう」された祭司長と長老たちは、「おひたし」で善後の策を講じねばならなくなる。もっとも怖いのは、人の口、人の噂である。人の口に廉は立てられぬから、対抗手段は、やはり偽りの「噂」をまき散らすにしくはなし、フェイク・ニュースをばらまいて対抗する、これは古今東西、どこでも変わらぬ手口である。そして「多額の金を与えて」、口封じするというのも変わりない。「弟子たちが夜中にやって来て、我々の寝ている間に死体を盗んで行ったと言え」、というのである。フェイクというものは全くの作り事、荒唐無稽ではだめで、それらしさがないと成立しない。だから嘘は、真実にちょっと偽りを混ぜることが、最も効果的であると言われる通りである。

「夜、我々が寝ている間に」、この言葉にこそ復活の真実がある。これこそ神のなされるみわざの、確かな事柄である。人は嘘を言う時にも、どこかに真実を暴露してしまうものである。「人が寝ている間に」、主イエスの譬話の中に、これと同じ言葉が語られている。『成長する種の譬』である。「ある人が種を蒔いた。夜昼寝起きしている内に、種は育っていくが、どうしてそうなるかはその人は知らない。地はひとりでに実を結ばせるもので云々」。一粒の種の成長が、神の国の働きとして喩えられている。即ち、人間の手や知恵や、働きの及ばない所で、もっと言えば、人間の力の尽きた所で、神のみわざは働くのである。人間が自分の力でどうにかできることについては、神はやすやすと手出しをなさらない。

「春眠暁を覚えず」、中国唐代(盛唐)の代表的な詩人、孟浩然の五言絶句『春暁』の冒頭の章句である。「処処啼鳥を聞く 夜来風雨の声 花落つること知んぬ多少ぞ」と続く。「春の眠りは心地よく、うっかり寝過ごし、夜明けに気付かない。目覚めてみると、ところどころで鳥がさえずり、よい天気だ。昨夜は風雨の吹き荒れる音がした。咲く花がどれほど落ちたことか」。人は夜明けを知らず、まどろんでいる。しかし夜来の激しい嵐の音も知る由もなく、夢うつつの中で聴いている。まるで主イエスの復活の出来事を思い起こさせるようだ。

人は、神のなされる出来事に、確かに気付くことはなく、眠っている。しかし「神はまどろまず、眠ることはない」と詩編詩人は詠う(詩121編)。だからこそ人間は、安心して自らを手放して、眠りの中に自己を解き放つことができる。眠りの中に「ゆだねる」ことが出来る。「我々の寝ている間に」、主イエスは復活された、聖書の言葉遣いによれば、「神がイエスを復活させられた」。人間の知らない所で、気づかない所で、すでに生命は立てられ、よみがえるのである。このよみがえりのいのちに、今日も生かされるのである。