説教『われらの主イエスは神に起こされた』(マルコ16:1~10)

2016年10月16日 神学校日礼拝(佐野真也兄)・説教要約

◎イエスの復活の証人は、役人や兵士、お金持ちの商人ではなく、さらに、男の弟子たちではなく、女性たちです。 その女性たちは、弟子たちが逃げ出す中でイエスの最後の十字架の死まで従い仕え、イエスの復活の証人となり ます。当時は、女性が差別され、ガリラヤでは農民が抑圧され搾取されていた時代です。この復活の出来事にお いては、私たち人間が何をするか、何ができるかは問題ではありません。主の復活の証人となった女性達は歴史のなかでまったく無力な人々でした。何をするか、何ができるか、は問題にならないような人々だったのです。

◎この主イエスの復活の出来事に直面する人間にとって決定的に重要なことは、「聞く」ことです。あの空の墓の 中で天使の言葉を「聞く」ことが重要でした。「あの方は復活なさって、ここにはおられない。さあ、行って、 弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。そこでお目にかかれる』」、と。復活の主イエスご自身の命令も、「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい」、つま り、すべての人々がこの喜びの福音を「聞く」ようにさせることでした。主の復活。それはこのように私たちがここで語りかけられていることをひたすら聞くこと、そのことを決定的に力強く思い起こさせる事件でした。

◎また、この復活物語は、イエスの復活自体を見るのではなく、鏡に向かうように主の復活に直面して、今や新たに私たち自身の姿をそのままを映して見るように促します。この言葉、私たち自身に対する神からの語りかけ、主イエスの復活によって今や私たちはいかなる姿の人間になっているか、それを解き明す言葉をひたすら「聞く」ことこそ、主イエスの復活に直面した人間にとって決定的なことでした。そして、ここで「聞く」こととは、私たちの現在が二つのことの間に立つものとして照らし出され、それによってこの現在が新たな出発点となることでした。一つはイエスが神によって起こされたことです。私たちは罪と死の重圧の元に自らが圧倒されていると思っていようとも、イエス・キリストにおいては神によってこの罪と死への勝利が実現しており、私達がその勝利の旗のもとにあることの告げ知らせです。もう一つは、このイエスがガリラヤで彼の弟子たちに会われるとの約束です。私達の今いる生活の場で主イエスは私たちに出会われる。つまり、私達は自己の現実の日常生活の場であの勝利の君(きみ)と共に生き、働くことができる、この希望を天使の言葉は高らかに宣べているのです。

◎わたしたちは、ここでこれらのことの反面も見ることができます。それは、この天使の言葉を聞く時までの女性たちの姿、そして聞いた反応の様子です。この早朝の暗さの中をうなだれて墓に向かってきた女性たちは、「取り繕い」と「気休め」に生きている人々でした。どうしようもないことの中で、葬式さえ中途半端で、あとから香油を塗る「取り繕い」。どうしようもない状態で、涙ながらにせめてできるだけ丁重に葬ろうとの「気休め」。わたしたちの現実も、いろいろな形でいろいろな意味で、あれこれの「取り繕い」の業と「単なる気休め」ばかりをしているだけのことがあります。このような現在は、新たな出発点ではなくずるずると後退しているだけか、問題を先延ばしし、崩れ落ちるばかりです。このような事態が多いことを自らを振り返ると実感させられます。

◎しかし、空(から)の墓の出来事、神がイエスを死から起き上がらせた復活は、「新たな出発の訪れを」、「神ご自身の語りかけを」、「福音を」、「聞く」ことにつながります。それは、あの早朝の暗さに覆われている私たちの現在の上に、主イエスの父なる神の力の光が、輝きのぼってくることです。この光によって、私たちの現在は、新たな出発へと体を起き上らせる時として、照らし出されます。マルコが述べる、主イエスと再会できる場所は、エルサレムではなくガリラヤです。イエスの時代は農民の時代であり、ガリラヤはローマから搾取され、最下層におかれた人たちが生きていた場所です。それでもガリラヤの人達には、あきらめない、抵抗の歴史があります。イエスはその人たちと歩もうとされました。そして弟子たちとの「そのガリラヤでの再会」を伝えられました。イエスが死から神によって起こされた出来事は、差別や抑圧の中で生き抜いた、帰結として殺された死の克服です。そして、それは意気地なしでイエスの言葉を理解できなかった弟子達をそのまま受け容れており、弟子達がそこで本来の自分自身へ立ち返ることを促しています。私たちも弟子たちと同じです。決してあきらめる必要はありません。本当に窮した時、人知を超えた何かが引き出されるのです。そのとき、これまでの自分の人生がどんな人生であったとしても、心から感謝して、新しい人生の歩みを踏み出すときが訪れているのです。女性達はイエスの復活を告げられ、恐れ、慄き、その場から逃げ去りましたが、沈黙し続けるにとどまらずイエスの復活の出来事を告げ知らせました。その証人となることができました。それは、怖れ、困難にあえぐガリラヤの農民にとっても驚くべき、喜ぶべき告げ知らせだったのです。私達一人一人にとってのガリラヤはどこでしょうか?それは今生きている場所、これから生きていく場所です。そこで地に足を付けて主イエスに従って参りましょう。