2017年6月18日 主日礼拝(井口伝道師)礼拝・説教要約
説教「イエス様の安らぎ」(マタイ11:28~30)
◎「すべて重荷を負う者はわたしのもとに来なさい。あなた方をやすませてあげよう」この聖句は宗教の違いを超えて、また、無宗教の人でも心に染みわたるイエス様の深い慰めの言葉として迫ってきます。イエス様は、一体誰にこの言葉を伝えようとされているのでしょうか。それは信仰者です。イエス様には多くの人が従っていきましたが、イエス様ということを本当に信じて従ったのは少数だったと言われています。そんなイエス様が人々を招いた言葉が今日の聖書の言葉です。主は疲れた者、重荷を負う人々を招いておられます。第一のメッセージは、文字通り疲れた者、重荷を負う私たちを招いておられるということです。
◎この招きは今も私たちの心に響いてきます。なぜならば疲れていない人、重荷を負っていない人などこの世には存在しないからです。ところが、今の時代はどうでしょうか。招かれる人というのは何か抜きんでた能力のある人が招かれるシステムになっていないでしょうか?「疲れた者、重荷を負って」いる人は決して招かれない。しかし、イエス様は人間の能力や才能や功績を一切の条件としてはいないのです。イエス様は私たちが自分自身を見るように私たちを見ておられない。神様・イエス様は私たちを「疲れた者、重荷を負って苦労している者」そのように見ているのです。第二のメッセージは何か?神様・イエス様の目からしたら、私たちは等しく、「疲れた者、重荷を負っている者」だということです。私たちは神様に見抜かれている。だから私たちが出来るのは、ただ自分自身を神様に明け渡すということだけなのです。
◎わたしも准允を受けて伝道師になった今、どれほど神学生時代に、いやそれ以前から、取り繕ったことでしょう。如何にイエス様の呼びかけからかけ離れた自分を確立しようとしてきたことでしょうか。それは今思えば、主の招き、主の人類に対する視点からかけ離れていたことか。「疲れた者、重荷を負う者よ、私のもとに来なさい」ということから如何に遠く離れた行動をとっていたのか。「いやいや、自分は疲れてなどいない」「自分は重荷など負っていない、そんなものは気のせいだ」、そうやって、自分は主の本当の呼びかけ、招きを無視し、人間的な視点で自分を過信し、自分勝手に判断し、逃げまくっていた自分がいたのです。しかし、主が招いておられるのはそのような者ではない。取り繕うことなく自分の傷をさらしたままの疲れた者、重荷を負う弱く小さくされた人々なのです。これが第二のメッセージであります。私たちが単純に主のもとへといくことを主は求めておられる。あなた自身を聖なる供え物としてささげよと。
◎しかし、注意しなければならないのは、次のことです。私たちが自分自身を捧げものとして明け渡す前から、主は既に神様に自分を捧げていたということです。これが第三のメッセージです。主は十字架を担う使命をもって人々を、全人類を、救うために、天から降ってこの地上に降り立ちました。そんな主こそが世界中の誰よりも「疲れた者、重荷を負う者」だったのです。そんなイエス様が私たちを招いておられる。主が担っている重荷はなにか?それは、あなた自身です。主は福音伝道のために各地を放浪しました。そんな主こそ「疲れた者、重荷を負う者はわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」と私たちを招き、いや、主の方から私たちに歩み寄ってくださり、あなたの傍らに寄り添っているのです。
◎主は十字架にかかる前、わたしたちに言い残されていきました。「あなた方には世にあっては苦難がある。しかし、勇気をだせ。わたしは既に世に勝っている」と。主がおっしゃりたいのは、私たちがこの世にあっては苦難はさけられないということ。私たちの疲れや重荷以上の苦しみを、主は私たちのために味あわなければならなかった。それは十字架の処刑です。誰よりも苦しんだのはイエス様だったのです。死の国に葬られ、私たちが受けねばならない裁きを十字架で受け、それを忍び耐えたのでした。
◎しかし、イエス様はそれに打ち勝って復活されたのです。私達の重荷、苦しみはイエス様がすでに勝利されている。主は重荷を一緒に担っておられるのです。イエス様が一緒に軛を負ってくださる。そこに安らぎがあるのです。イエス様はもっと深いところから支えて下さっているのです。イエス様は、必ず私たちを、そして、あなたを休ませてくださいます。ここにあるイエス様のくびきとは何でしょうか?くびきとは二頭の牛を首のところで繋ぐ農業用の道具です。そのくびきの片方ではイエス様が既にあなたの重荷を負っている。もっと言えば、あなた自身全てをイエス様が負っていて下さる。だから安心して神様・イエス様にあなたの重荷を委ねることが出来るのです。その決断は、私たちに委ねられています。「疲れた者、重荷を負う者よ、私のもとに来なさい。あなた方を休ませてあげよう」。あなたは、今、その招きに応えることが出来ますか?その決断を下すことが出来ますか?イエス様は、今、あなたを呼んでおられます。