2017年6月25日 創立記念礼拝(小田部進一先生)礼拝・説教要約
説教「信仰と生きる勇気」(ローマ3:27~31)
◎宗教改革は聖書を自分たちの言葉で読み、語る運動でした。ルターは聖書をドイツ語に翻訳すると同時に、誰もが自分の言葉で聖書を読めるように少年少女のために学校を建てることを推奨しました。使徒言行録2章にあるように聞き手の言語を用い、聞く人々が分かるように語ったことに比較できます。ルターは、全信仰者の祭司性という教会の霊的な土台を再発見し、「聖書のみ」に立ち返りました。現代の教会もまた、聖書の使信を「私たちの言葉で」あるいは「現代の人々が語る言葉で」つむぎだしているのか問われます。◎ルターによれば、人間を義とし自由とするものは「み言葉のみ」です。み言葉は私たちを神の前に立たせ、まず、誰もが弱く、有限な存在であり、罪を犯さないで生きることはできないことに気づかせます。自分の力で救いを求める者にとって、それは絶望の経験となります。しかし、まさにそのような経験の中で、逆説的に、外側から与えられる恵み、キリストの十字架とそこに約束された赦しのことばが聞こえるようになります。「罪人を、それにもかかわらず、義と認める」ゆるしの言葉です。み言葉とは、神が私たちに人格的に語りかける行為であり、そこにルターは裁きと赦し、律法と福音という二つの働きを見ています。
◎「み言葉のみ」は、「罪人の義認」が一貫して、神の「恵みのみ」によって実現することを示しています。「罪人の義認」という言葉は逆説を含んでいます。なぜなら、「正しい人が正しい行為によって義とされる」と考えるのが、常識的、道徳的な考え方だからです。「罪人の義認」は「われわれが受け容れられえない者であるにもかかわらず受け容れられる」という逆説を含んでいます。つまり、自己中心という罪の力に縛られている人間存在全体が、それにもかかわらず、ゆるしの宣言を受けるということです。したがって、この「恵みのみ」のゆるしの宣言は、厳しい側面をもって私たちに迫ります。つまり、それは人間の人間としての根本的な価値が、神の前では有限で弱く罪に縛られた存在であるにもかかわらず、神に愛されているという約束の言葉をただ受け容れること、「信仰のみ」を求めるものだからです。「恵みのみ」のゆるしの宣言は、「人間がもたらす価値によって」という立場に対する裁きの宣言でもあります。そして、それに対抗する十字架の「キリストのみ」において、この徹底した恵みが経験されるのです。
◎ルターは、1518年の「ハイデルベルク討論」第28論題の論証で、神の愛と人間の愛を区別して次のように述べています。「それゆえ、罪人は、美しい者であるから愛されるのではなく、愛されるがゆえに美しい者なのである」。ルターが示す人間の愛と神の愛は二つの異なる力が働く世界を意味しています。「美しいから愛される」という人間の愛の世界は、まず「美しい」という質や価値が最初にあって、それが原因となって「愛される」(受け容れられる)という関係が生じる世界です。自らの行為や価値によって他者の承認を獲得しなければならない世界です。現代の私たちが生きている業績主義社会の中にもこの力が働いています。それに対して、「愛されるがゆえに美しい」という神の愛の世界は最初に「愛される」(受け容れられる)という関係があり、その関係の中で「美しい」という質や価値が生じる世界です。つまり、人間が発揮する社会的な業績が人間の一部ではあっても全体ではなく、その有無によって存在それ自体の価値が失われることがない世界です。この確信は自分自身への信頼によってではなく、対象の価値に依存せず、無償で愛する神とその愛に基づくものです。私たちに求められていることは、私たちがただその神の愛の関係の中に置かれていることを「受け容れるのみ」、「信仰のみ」です。つまり、神に愛されていることを信じる者は、その時、何によっても失われることのない価値、尊厳を身にまとい、生かされている自分の存在に気づくことができるのです。そこにキリスト者の自由の源泉、人間が生きる勇気の源泉があります。
◎誤解を解くために言うならば、ルターは社会の中で期待された業績をもたらすことや機能をすることそれ自体を否定しているわけではありません。しかし、人間のつくりだす質や価値が誤って絶対化され、神の位置に置かれ、人間が生きるに価するかどうかを判定するようなことが起こる時、それが宗教制度の中であれ、社会制度の中であれ、どこででも、それに対抗して、「罪人の義認」、すなわち、「罪人である人間は、それにもかかわらず、愛されているから美しい」という信仰が語られる必要があります。現代の教会と、その礼拝と祈りの場が、一人ひとりが、神の呼びかけを聞き、何によっても失われることのない価値と尊厳を経験する場所になっていくとき、そこに宗教改革の精神と信仰が継承されていく土台が形成されることになるでしょう。そのような意味で、「みことば」との出会いが、この地域で、鶴川北教会を通して、これからも豊かに起こること、そこに神の恵みと祝福が豊かにあることを願います。