2015年 3月22日 主日礼拝(説教:小林喜一神学生)説教要約
説教『神様は私達の心をご存じである』(ルカ16:14~18)
◎今日の聖書箇所出エジプト記3章11節から15節は3章1節から続くモーセの召命の物語です。3章4節では主がモーセに「モーセよ、モーセよ」と声をかけられます。その時、モーセは「はい」とはっきりと答えます。しかし、それに対し今日の聖書箇所11節では「わたしは何者でしょう。」とあいまいな返事をします。この理由は「ファラオのもとに行き、しかもイスラエルの人々をエジプトから導きださなければならないという具体的な任務が示されたからです。この任務に対しての返答「わたしは何者でしょう。」はどうして私がそんな役割を果たさなければならないのかという抵抗の言葉としてとれます。しかし、この言葉を言ったからと言って彼を神を信じない不信仰者と決めつけることはできないと思います。この抵抗の言葉は逆に「わたしは何者でしょう。」と謙遜の言葉としても取れます。つまり、ファラオのもとに行き、しかもイスラエルの人々をエジプトから導き出せるほどの大人物でないと、謙遜しているのかもしれません。以前モーセは王女の子として育ちましたが、今のモーセはエジプトの国を出てミディアンの地で一人の羊飼いとして生活していました。羊飼いは当時も今もさげすまれる過酷な職業だったからです。その彼に主の呼びかけに答えるだけの力量がどれだけあったかは疑問です。ここにおいて、モーセはその任務の重大さと困難さに直面して当惑しているのだと思います。
◎11節の「わたしは何者でしょう。どうして、ファラオのもとの行き、しかも、イスラエルの人々をエジプトから導き出さねばならないのですか。」と、神に問うモーセに対し神のお答えはこうです。「わたしは必ずあなたと共にいる。このことこそ、わたしがあなたを遣わすしるしである」。モーセは神からイスラエルの人々をエジプトから導き出しなさいと命じられたとき、先にも言いましたが、任務の重大さと困難さに直面して、当惑しているモーセにとってこの言葉は、勇気づけられる力強い言葉ではなかったかと思います。神がモーセにこれからさせようとすること全般において神が一緒のおられるというのです。モーセは神の臨在を感じながら任務を遂行できるというのです。全能の神が共におられることでモーセは人間的力も自分の羊飼いという身分も気にしなくてよいのです。ただ神に委ねればいいのです。
◎この力強い言葉を聞いてモーセはイスラエルの人々のところへ行く決心をしますが、まだ不安が残り、更に神に尋ねます。「わたしは、今、イスラエルの人々のところへ参ります。彼らに『あなたたちの先祖の神が、私をここに遣わしたのです』と言えば、彼らは『その名は一体何か』と問うにちがいありません。彼らに何と答えるべきでしょうか」と。モーセは、なぜ、神の名を尋ねたのでしょうか。イスラエルの民のところへ行ったとき、彼らが本当に自分たちの先祖の神の名を尋ねると思ったのでしょうか。それとも、モーセ自身知りたかったのでしょうか。少し、このことについて考えてみましょう。私たちは外国人であれ日本人であれ、それぞれの名前を持っています。名前を持っていない人はいないと思います。では、名前というのは、人一人を区別するだけでしょうか。私たちがある一人の人名を思い浮かべたとします。そのとき、その名と一緒に様子、更にその人の性格まで思い浮かべるのではないでしょうか。つまり、人の名を知ることはその人がどういう人であるのかその輪郭をつかむことになるのではないでしょうか。誰かの名前を知るということはその人格の本質を理解するのに繋がるのです。同様に、神の名を知ることはその神の本質を認識するのに役立つのです。ここで、モーセが神の名を問うたことにはこのような重大な意味があり、大変重要なことなのです。
◎モーセの問い「その名は、一体なにか。」に対して「わたしはある。わたしはあるという者だ。」と神はご自身の名を明らかにします。これは旧約聖書の原典のヘブライ語から日本語に訳されていますが、訳すのに非常に難しいところです。私たちが今、使っている聖書新共同訳では「わたしはある。わたしはあるという者だ。」ですが、別の聖書ではどのように訳されているでしょうか。口語訳では「わたしは有って有る者」です。新改訳では「わたしは、『私はある』という者である。」です。またさらに別の訳では、「わたしはあるところのものである」、「私はかく有ろうとする存在(者)になる」、「わたしはなろうとする者になる」などがあります。しかし、どれをとっても意味があまり良く解りません。ただわかるのは神の名が「ある」という存在に関係があるということです。なにか神の名が「存在」に関係しているということです。このことは、イスラエルの神は存在や実存と深く関係しているということを示しています。また、さらにこの神はすべてのものを創作った神、つまり、世の創造者であり,全てのものを存在なさしめる方であります。その方こそ、実際に「ある」方であり、「現にいて、生きて働く」お方であるということです。存在が神の名を表すということは、そのような意味で言われているのではないでしょうか。ここで、思い出すのが先に言われた言葉「わたしは必ずあなたと共にいる。」です。つまり、この神はいつもわたしたちと一緒にいてくれる神なのです。
◎更に神は、「イスラエルの人々にこう言うがよい。『私はある』という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと。」言われます。ここで、イスラエルの人々に私、神の名は「わたしはある」ですとモーセによって伝えられるのですが、イスラエルの人々にとって神が自分の名前を語るということは、何を意味するのでしょうか。それは15節の神が再び、モーセに命じた言葉の中に答えがあるのではないでしょうか。「イスラエルの人々にこう言うがよい。あなたたちの先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である主がわたしをあなたのもとに遣わされた。これこそ、とこしえにわたしの名。これこそ、世々に私の呼び名」。イスラエルの人々にとってこれからモーセによって告げ知らされる神の名「わたしはある」は、祖先から導かれている神であるというのです。モーセがイスラエルの人々に神の名を告げたときからその関係が始まる神でなく、イスラエルの父祖アブラハムを神が選んだ時から世々にわたってイスラエルの人々を導く神であるというのです。はるか大昔から族長の時代からあなたたちの神なんだよということです。また、神学者T.E.フレットハイムは「わたしはある。あるという者だ。」の解釈を「わたしはあなたのために神になるであろう。」としました。この解釈には、ただ、単に神があるとか、神が存在するということではなく、イスラエルの人々のために誠実に神であろう、という意味があると言うのです。「これこそ、とこしえにわたしの名。」「これこそ、世々にわたしの呼び名。」とあるように、イスラエルの人々にとって神は「とこしえ」であり、また「世々に」神の名と存在は未来へと続くのです。
◎モーセが「わたしはある」という名前の神に召されたのは、何か理由があったのでしょうか。ファラオと対決し、イスラエルの人々をエジプトから導きだすだけの能力がモーセに備わっていたのでしょうか。そうではないでしょう。モーセ自身にはイスラエルの民を導きだすほどの強い力は無いけれども、神が共にいらしてくださることによって力を得、その任務を遂行できるのです。神の名を知ることにより力を感じ、神の名が持つ力がイスラエルの民を解放に導く力となるのではないでしょうか。
◎モーセの召命物語を学んでいて思うことは、神の「選び」ということです。モーセはもちろん神から選ばれたのですが、旧約聖書においては他にもいろいろな人が神の召しにより選ばれます。アブラハム、イザヤ、エレミヤもそうです。また、新約聖書においても神によって選ばれている人がいます。それはマリアと主イエスです。ルカによる福音書1章26節~38節とマタイによる福音書1章18節~25節にはこの二人の初めての出会いが記されています。二人が最初に出会ったというのはマリアが聖霊によって主イエスを身ごもった時です。
◎マタイによる福音書1章23節には「『見よ、おとめが身ごもって男の子を生む。その名はインマヌエルと呼ばれる.』この名は、『神は我々と共におられる』という意味である。」とあります。また、ルカによる福音書1章28節に「天使は、彼女のところへ来て言った。『おめでとう、恵まれた方、主があなたと共におられる』」とあります。これらは今日の聖書箇所出エジプト記3章12節で言われた言葉「わたしは必ずあなたと共にいる。」と同じであることにお気づきでしょう。モーセにご自身の名を示して「わたしはある」という神がマリアとも主イエスとも共におられるのです。主イエスは、わたしたちと共にいてくださると言うことでもあるのです。「わたしはある」という神はモーセ共にいましたが、それはまた、マリアと共に、そして主イエスと共におられ、主イエスを通して私たちと共におられるのです。このことは「わたしに従ってきなさい」という主イエスの招きに従う信じる者にとっては確かな約束なのです。主イエスは神から遣わされ、受難を受け、十字架の上で、息を引き取るまで神に、素直に従った人でした。それは「わたしはある」という神がモーセ以上に自分と共にあるということを確信していたからです。
◎私達自身はどうでしょう。モーセと同じように神から大きな使命を果たすことに召されていないかもしれません。また主イエスのように行動し語ることはできないかもしれません。けれども、主イエスは確実に私たちと共におられるのですから、私たちは主イエスを通して神から与えられている福音宣教の使命を果たすようにと召されているのではないでしょうか。私たちひとりひとりがそれぞれの日常の生活の中で、主イエスを通して、「わたしはある」という神を信じ、恵みに信頼して感謝したいと思うのです。そして、「わたしはある」とい言う神の力に信頼して弱さを内に抱えるわたしたちではありますが、主イエスの福音を宣べ伝えていこうではありませんか。