説教『神の名は『わたしはある』(出エジ3:11~15)

2015年 3月22日 主日礼拝(説教:小林喜一神学生)説教要約
説教『神の名は『わたしはある』(出エジ3:11~15)

o_085◎ 今日の聖書箇所・出エジプト記3章11~15節は、3章1節から続くモーセの召命の物語です。3章4節では、
主がモーセに「モーセよ、モーセよ」と声をかけられます。その時、モーセは「はい」とはっきりと答えます。しかし、それに対し今日の聖書箇所11節では「わたしは何者でしょう」とあいまいな返事をします。ここにおいて、モーセはその任務の重大さと困難さに直面して当惑しているのだと思います。さらに「どうして、ファラオのもとの行き、しかも、イスラエルの人々をエジプトから導き出さねばならないのですか」と神に問うモーセに対して神は答えます。「わたしは必ずあなたと共にいる。このことこそ、わたしがあなたを遣わすしるしである」。モーセにとってこの言葉は、勇気づけられる力強い言葉ではなかったかと思います。全能の神が共におられることでモーセは人間的力も羊飼いという身分も気にしなくてよいのです。ただ神に委ねればいいのです。
◎この力強い言葉を聞いてモーセはイスラエルの人々のところへ行く決心をしますが、まだ不安が残り、更に神
に尋ねます。「わたしは、今、イスラエルの人々のところへ参ります。彼らは『その神の名は一体何か』と問うにちがいありません。彼らに何と答えるべきでしょうか」と。モーセは、なぜ、神の名を尋ねたのでしょうか。誰かの名前を知るということはその人格の本質を理解するのに繋がります。同様に、神の名を知ることはその神の本質を認識するのに役立つのです。モーセの問い「その名は、一体なにか。」に対して「わたしはある。わたしはあるという者だ」と神はご自身の名を明らかにします。ここは、口語訳聖書では「わたしは有って有る者」、新改訳聖書では「『私はある』という者である。」。ここから分かるのは、神の名が「ある」という存在に関係があるということです。イスラエルの神は、存在や実存と深く関係しているということを示しています。また、さらに、この神は、すべてのものを創造した神、つまり、世の創造者であり,全てのものを存在なさしめる方であります。その方こそ、実際に「ある」方であり、「現にいて、生きて働く」お方であるということです。
◎更に神は言われます。「イスラエルの人々にこう言うがよい。あなたたちの先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である主がわたしをあなたのもとに遣わされた。これこそ、とこしえにわたしの名。これこそ、世々に私の呼び名」と。イスラエルの人々にとってこれからモーセによって告げ知らされる神の名「わたしはある」は、祖先から導かれている神であるということです。イスラエルの父祖アブラハムを神が選んだ時から世々にわたってイスラエルの人々を導く神であるというのです。はるか大昔から族長の時代からあなたたちの神なんだよということです。さらに「これこそ、とこしえにわたしの名。」「これこそ、世々にわたしの呼び名。」とあるように、神は「とこしえ」であり、また、神の名と存在は「世々に」、つまり未来へと続くのです。
◎しかし、モーセが「わたしはある」という名前の神に召されたのは、何か理由があったのでしょうか。ファラオと対決しイスラエルの人々をエジプトから導きだすだけの能力がモーセに備わっていたのでしょうか。そうではないでしょう。モーセ自身にはイスラエルの民を導きだすほどの強い力は無いけれども、神が共にいらしてくださることによって力を得、その任務を遂行できるのです。神の名を知ることにより大きな力を感じ、神の名が持つ力がイスラエルの民を解放に導く力となるということをこの召命記事は示しているのではないでしょうか。
◎モーセの召命物語を学んでいて思うことは、神の「選び」ということです。モーセはもちろん神から選ばれたのですが、旧約聖書においては他にもいろいろな人が神の召しにより選ばれます。アブラハム、イザヤ、エレミヤもそうです。また、新約聖書においても神によって選ばれている人がいます。それはマリアと主イエスです。マタイ福音書1章23節には「『見よ、おとめが身ごもって男の子を生む。その名はインマヌエルと呼ばれる.』この名は、『神は我々と共におられる』という意味である。」とあります。これは、出エジプト記3章12節で言われた言葉「わたしは必ずあなたと共にいる。」と同じであることにお気づきでしょう。モーセにご自身の名を示して「わたしはある」という神が、マリアとも主イエスとも共におられるのです。「わたしはある」という神はモーセ共にいましたが、マリアと共に、主イエスと共におられ、そして、主イエスを通して私たちと共におられるのです。このことは「わたしに従ってきなさい」という主イエスの招きに従う信じる者にとっては確かな約束です。主イエスは、神から遣わされ、受難を受け、十字架の上で、息を引き取るまで神に、素直に従った人でした。それは「わたしはある」という神がモーセ以上に自分と共にあるということを確信していたからです。
◎ 私達自身もまた、主イエスを通して神から与えられている福音宣教の使命を果たすようにと召されています。私達一人一人がそれぞれの日常の生活の中で、主イエスを通して「わたしはある」という神を信じ、恵みに信頼して感謝したいと思うのです。そして、弱さを内に抱える私達ではありますが、「わたしはある」とい言う神の力に信頼して主イエスの福音を宣べ伝えていこうではありませんか。5年間のご支援、ありがとうございました。