説教『人間の罪と悲惨、そして、罪の赦し』(マタイ27:32~46)

2015年 3月29日         棕櫚の主日・礼拝説教要約
説教『人間の罪と悲惨、そして、罪の赦し』(マタイ27:32~46)

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◎ 3月最後、今年度最後の主の日を迎えています。桜も開花し、春爛漫の時を迎えようとしています。そのような中、私達は今日から受難週に入ります。今日はその受難週の最初の日、棕櫚の主日となっています。この日、イエス様はエルサレムに入城され、その日から5日間、神殿で教えられましたが、主は、最後の晩餐の後、逮捕され、大祭司の家で尋問を受けられ、翌・金曜日に総督ピラトの尋問の後、十字架に付けられました。そして、
「わが神、わが神、なぜ私を見捨てるのですか」と叫び、息を引き取られたのでした。今日は、私達が信じている十字架の信仰・十字架による救いの意味について、聖書の言葉を通して深く知り、心に刻んで参りましょう。
◎さて、私達は十字架による罪の赦しを信じていますが、十字架による罪の赦しとは一体何か。そのことを今日、分かりやすくお話したいと思います。罪の赦しを知るためには罪について知る必要があります。罪とは何か。
罪とはギリシャ語でハマルティアといい、「的外れ」を意味します。人間として在るべき在り方から外れていること、離れていることを言います。聖書によれば、人間は神から造られた被造物であり、本来、神の支配の元に神に従い、神の戒めを守り、神と共に生きて行く存在です。ところが、人間は神から離れ、神に背き、自分勝手に生き始めた。その結果、悪を行うようになり、人間同士傷つけ合い、自分自身をも傷つけるようになりました。
私達は殺人や盗み、姦淫などの悪を罪と呼びますが、聖書の言う罪とは、その根底にある人間の在り方、神に背き、自分を主とし、自分を神とする在り方・生き方をいいます。そのことをよく描いたのが創世記3章の記事です。蛇の誘惑によって神から食べてはならないと命じられていた木の実をアダムとエバが食べる話です。その中でエバは「神のように賢くなる」の言葉に心を魅かれます。これは罪の本質が「人間が神のようになること」にあることを示しています。被造物である人間が創造主である神のように振る舞うこと。これが罪の本質です。
◎このことは、今日の言葉「神殿を打ちこわし、三日で建て直す者、神の子なら自分を救ってみろ」とある「自分を救え」と言う言葉に示されています。「他人を救ったのに自分は救えない。自分を救ってみろ」の言葉に、私達人間の生き方が集約されています。ここには、「他人よりまず自分を救うことが先」という自分を優先する生き方があります。また、「自分のことは自分で救え」という自己責任の考え方が込められています。ここには、「自分こそが自分の神であるべき」と言う考え方が根底にあります。「自分が神」になったら、神と神の戒めは無視され、自分が正義であり、基準であり、自分が中心に世界が回っていることになります。現代社会では、この手の人間、自己中心的な人間が増えていますが、その根底には自分を神とする人間の在り方があります。そのような人間は恐れと不安を抱え、互いに傷つけ合い、孤独に生きています。これが罪の中にある人間の姿です。
◎そのような罪の中にある人間の姿を福音書、特に受難はじつにリアルに描いています。宗教指導者達、群衆、兵士、総督ピラト、弟子達、すべての中に罪を描いています。そのような人々の罵声を浴びながら主は十字架上で「エリ、エリ、レマサバクタニ」「わが神、わが神、なぜ、私を見捨てるのですか」と叫んで息を引き取られます。この絶望的な叫びは何を意味しているのでしょうか。ある人は、主は詩編22編の冒頭の言葉、「なぜ、私を見捨てるのですか」を叫ばれたが、本当に言いたかったのは、この後の言葉「私達は必ず救い出される」であったと書いています。捨てがたい解釈ですが、私にはやはり絶望の言葉としか聞こえてきません。では、なぜ、主は絶望的な叫びを上げられたのか。それは、私達人間の罪と悲惨を引き受けるためです。本来、罪ある人間が叫ぶべき言葉を、主が代わって叫んでおられる。医者である主は病人である私達の罪の叫びを自分の叫びとして叫んでおられるのです。イザヤ書53章「彼が担ったのは私達の病、彼が負ったのは私達の痛みであった」とある預言の言葉が、十字架上で実現しているのです。主は私達に代わって罪人としての絶望的な叫びを叫び、私達と共に苦しみ、呻き、絶望しておられる。主は私達の苦しみ・悲しみ・呻き・絶望を共にしておられるのです。
◎しかも、この叫びに中にはもう一つ大切なもの、父なる神への信頼があることに気が付きます。主は最後まで幼子が母親を慕うような父なる神への信頼をもち続けました。神への信頼の中でご自分の使命を果たされたのです。そのような主の姿を見た百人隊長は「この人は真に神の子であった」と証言しています。彼は、悲惨な姿で敗北したかに見える主の姿の中に、真の神の子・救い主の姿を見、罪と死に勝利した救い主の姿を見たのです。
しかし、なぜ、主は血を流さなければならなかったのでしょうか。それは私達が犯した罪は神の前に重いからです。私達の罪は水で流せるようなものではなく、実に重いのです。しかし、人間はその罪の重さに耐えらません。
憐れみ深い神は私達の罪を独り子である主イエスに背負わせ、その命によって罪を赦す決断をされたのでした。
ある老女は「キリストのように自分を犠牲としてくださる、これくらい激しい愛で愛してもらえなければ救われない業の深い女です」といって洗礼を受けたと言います。十字架の血は私達への神の激しい愛の表われなのです。