説教『私達は神に何を祈るのか』(マタイ6:7~12)

2015年10月 4日   主日礼拝(修養会に向けて)・説教要約
説教『私達は神に何を祈るのか』(マタイ6:7~12)

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◎ 10月に入って秋らしくなってきました。今日は、世界中に集う兄弟姉妹が一つであることを覚える世界聖餐日、 また、世界各地で福音を宣べ伝えている宣教師を覚える世界宣教の日です。今日はこのことを覚えて礼拝を捧げましょう。さて前回は、教会修養会に向けた第1回の説教として「人はなぜ祈るのか」と題してお話をしました。

すべての人の心には祈りの心があること、聖書は祈りの対象である神がいかなる方かを教えていること、そして、祈りとは神につながることであり、祈りを通して神の命と愛、恵みを受け、その愛を隣人に注ぐことができること、祈りを通して自己中心的な生き方から神中心・他者中心の生き方に変えられていくことなどを話しました。

◎ 今日は修養会に向けての2回目の話として「私達は神に何を祈るのか」、祈りの中身・内容についてお話します。聖書によれば私達は何を祈っても許されます。「あなたがたの内、二人がどんな願い事でも心を合わせて祈るなら、神はそれを叶えてくださる」と言う主の言葉があるように、神様は父として子である私達の祈りをすべて真剣に聴いてくださいます。それほどまでに神は私達を深く愛し、私達の祈りを真剣に聴いてくださるのです。

しかし、キリスト者の祈りはただ自分の願いを求める祈りに終わりません。感謝の祈り、悔い改めの祈り、讃美の祈りがあります。それは私達が神様とはいかなる方であるかと言うことを聖書を通して知っているからです。

◎聖書の神は天地万物を創造し、支配される父なる神であり、全能の神である。だから、畏れつつも大きな信頼をもって何事も叶えてくださると信じて祈ることができます。第2に聖書の神とは義なる神である。だから、義に反している私達は神の前に悔い改め、罪の赦しを求めざるを得ない。そして、神の義に従って生きていけるように祈らざるを得ません。第3に聖書の神とは、愛と憐れみの神、私達を赦し、助け、守り、導き、救い出して下さる神です。だから、神に対してその愛と赦し、救いと恵みに対して感謝し、感謝と賛美の祈りを捧げます。第4に聖書の神は私達を選び、使命と役割を与え、世に遣わす神です。だから、神が何を自分に求めておられるのかを祈り求め、また、神が私達に与えたもう神の使命と役割を果たして行けるようにと祈らざるを得ません。

◎それらのことをイエス様ご自身が教えてくださったのが「主の祈り」です。今日は、マタイ福音書6章において主が教えておられる「主の祈り」通して、私達は何を祈ったらいいのかを学んでいきたいと思います。主の祈りは、何を祈っていいのかを教えているだけでなく、私達を悔い改めさせ、与えられている恵みを思い起こさせ、感謝と賛美の心を与えてくれます。また、希望と待望、世界的な連帯性を持っています。主の祈りを「祈りの学校」「終末的な祈り」「世界を包む祈り」と表現した人もいます。主の祈りは「天にまします我らの父よ」という呼びかけから始まります。超越的であり、父なる神、しかも、すべての者の神・我らの神よ、と呼びかけます。

◎その後、前半で神について3つのことを祈ります。自分のことよりも神のことを祈るのは、それほど大きな救いと恵みを受けているからです。第1の祈りは「御名が崇められますように」です。「神様の名前がこの上なく敬われますように」との祈りですが、原文に即すと「神の名が聖なるものとされますように」となります。神様の大きな救いと恵みにあずかった者は神を讃え、神の名が聖なるものとされ、神の栄光が讃えられますように祈るのです。第2の祈りは「御国が来ますように」です。御国とは神の国・神の支配を意味します。義なる神・愛と憐れみの神・平和と祝福の神は、やがて地上にも義と愛と平和と祝福をもたらしてくださる。イエス様の到来によって神の国は始まった。そのことを信じて祈る祈りです。第3の祈りは「御心が天になるごとく地にもならせたまえ」です。神の御心とは、この世界に神の愛と義と平和が満ち、すべての命が幸福と祝福に満ち溢れることです。イエス様を通して神の愛と義と平和、祝福にあずかった者は、そのことを神と共に切に願い祈るのです。

◎以上、前半の祈りを見てきました。この3つの祈りに共通するものがあります。それは「悔い改めを迫ること」「感謝と賛美の心が溢れること」「将来への希望を与えてくれること」です。御名を汚し、御国から遠く、御心が行われていない世界の現実、私の現実を思うと私達は悔い改めざるを得ません。しかし、そのような世界に神はイエス様を遣わし、私達を救い、御国が始まり、御心を地になしてくださった。そのことを深く感謝し、神を讃美します。そして、まだ来ていない御国を待ち望み、希望と信仰をもって御心が地になるようにと祈るのです。

◎それは、後半の3つの「我らの祈り」にも言えます。「我らの日用の糧を今日も与えたまえ」と祈る時、浪費している自分、まだ必要な食糧を与えられていない人々のことを思います。「我らに罪をおかす者を我らが赦すごとく」と祈る時、人を赦せない自分を恥じます。「試み合わせず悪より救い出した前」と祈る時、誘惑と悪の中にいる自分を思います。しかし他方、必要なものを日々、神から与えられている恵み、罪深い自分の罪が赦されている恵み、誘惑と悪から守られている恵みを思い、感謝と讃美が溢れます。そして、将来においても神に守られ、恵みを受けていることを信じ、安心できるのです。主の祈りは何を祈るかを教え、大きな恵みを与えてくれるのです。