説教『祈りの生活を築くために』(マタイ6:5~6)

2015年10月11日     主日礼拝(教会修養会)・説教要約
説教『祈りの生活を築くために』(マタイ6:5~6)

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◎ 10月第二の主の日を迎えました。教会では、今日と明日、「祈りの生活を築く」というテーマで修養会を持ちます。明日は加藤常昭先生のお話をしていただきますが、私もこれまで、第1回「人はなぜ祈るのか ―祈りの意」、第2回「私達は神に何を祈るのか」という題で説教をしてきました。修養会を迎えた今日は、「祈りの生活を築くために」というテーマで、「いかに祈るか」「どう祈るのか」ということについて、聖書の御言葉を通して、また、テキストであるボンヘッファーの『共に生きる生活』の文章を通してお話をしたいと思います。

◎「いかに祈るか」についてはお伝えしたいことが沢山ありますが、今日は3つに分けてお話したいと思います。まず、第一に大事なことは「ひとりで祈ること・時間を大切にする」ということです。祈りには、「共に祈る」ことも大事ですが、「ひとりで祈る」ことも大切です。なぜなら、私達が一人で神様に向き合って祈る時、私達と神様の間に深い絆・結びつきが生まれ、そこから神様の命・力・愛・恵み・祝福を受け、それに満たされて神と共に生きて行く土台が築かれるからです。マタイ福音書6章6節に「奥まった部屋に入って戸を閉め、隠れた所におられる神に祈れ」と主イエスが教えておられるように、神様に向かって1対1で相対して祈ることが大切です。人前で祈る時、祈れるだろうかという恐れと立派に祈ろうという誘惑が襲います。自分と他人を意識するからです。祈りは神に向かってなすものです。1対1で神に向き合い、対話すること、神の声に耳を傾けると共に、自分の思いや悩み、願いを包み隠さず述べること、時に問いかけ、訴え、思いをぶつけること、これが祈りです。父なる神と子なる私達の間の遠慮のない対話と交わりの時と言えます。この祈りを通して神の声を聴き、神の御心を知り、神の愛と恵み、命と力、祝福を受けるのです。13世紀の聖人フランチェスコは真夜中、起き出して、ただ「神よ!」と祈り続けたと言います。黒人への差別と闘ったキング牧師は脅迫と暴力に挫けそうになったことが何度もありましたが、神への祈りの中で主の声を聴き、その都度、立ち上がって行きました。

◎私達はこの「ひとりの祈り」の中で家族や親族、友人・知人、教会の兄弟姉妹、日本や世界の人達のために祈り ます。これを「執り成しの祈り」といいますが、一人の祈りの中でこそ「執り成しの祈り」が必要です。元日本YWCA会長の関屋綾子さんは、幼い頃、祖母であった森寛子(初代文部大臣・森有礼の妻)が真夜中、ひざまずいて親族・友人・知人など50名以上の人達のために祈る姿に感銘を受けたといいます。私達はこの執り成しの祈りによって、祈る隣人と神様がつながり、また、私達とその隣人がつながっていることを強く感じます。そして、祈る隣人と世界を神に委ねる共に、私達と隣人・世界の関係が変えられていくことを深く覚えるのです。

◎そのように神の前に一人祈ることができるようになった時、ボンヘッファーが言う「ひとりの人」「自立した人間」になるのだと言えます。そして、「ひとりの人」になった時、初めて「他者と共に生きる人」になるのです。その意味で「神にひとりで祈る」ことが、真に自立した人間、他者と共に生きる人間にしてくれるのです。

◎「いかに祈るか」で第二に大切なのは「聖書の言葉・神の言葉に導かれて祈る」ことです。ボンヘッファーは、 「聖書を読み、思いを巡らすことから祈りへと導かれていく」といいます。神の御心が込められた神の言葉によって私達の心は神の御心へと導かれ、私達は神の御心に適う者へと変えられていきます。その際、聖書の御言葉は短くていいと彼は書いています。私は毎日、ローズンゲン(日々の聖句)を使っていますが、他に「日々の糧」もあります。その御言葉を自分に向けられた言葉、今日という日に与えられた言葉として受け止め、その聖句と共に生きることが大切です。私達は、御言葉を通して神の声を聴きます。そして、御心へと導かれます。それは聖霊の導きとも言えます。ローマの手紙8:26に「私達はどう祈るべきか知りませんが、霊自ら言葉に表せないうめきをもって執り成してくださる」とあるように、私達は聖霊によって祈るのです。私達は、辛く苦しい時、祈れなくなります。しかし、聖霊が導いてくださり聖霊自らが祈ってくださる。そこに祈りの本質があります。

沈黙の中で御言葉を受け、沈黙の中で御言葉を味わい、黙想します。その意味で、祈りには沈黙・黙想・霊性が必要なのです。結局、祈りは人間が祈るというよりも、聖霊に導かれて聖霊が祈る。そう言っていいでしょう。

◎最後に「いかに祈るか」で大切なことは「いつ祈るのか」です。祈りはいつ祈ってもいいのですが、とりわけ朝の祈りは大切です。朝は一日の始まりであり復活の時です。暗い夜が終わり、新しい命と救いが贈られた復活の朝が始まります。主イエスは朝早く起きて、神の前に静かに祈る時を持ちました。与えられた一日を神から贈られた一日として感謝と喜び、責任をもって始めます。そして、一日が終わった時、神への懺悔と感謝を持って終わります。これがキリスト者の祈りの生活です。その一日の中で私達は何度も祈ります。渡辺和子さんはエレベーターが来るまで祈りといい、内村鑑三は「夜7時に祈る時こそ、最高の時である」と書いています。鶴川北教会の今年度の目標聖句には「絶えず祈りなさい」とあります。これから祈りの生活を共に築いて参りましょう。