◎1月最後の主の日を迎えています。毎日、寒い日が続いていますが、明日から2月。4日は立春です。寒さもまだ続くかと思いますが、春はすぐそこまで来ています。今日も聖書の御言葉から神様の御声・メッセージを聴いて参りたいと思います。今日、取り上げる聖書の箇所はルカ20:45~21:4までです。このあとの21:5以下は終わりの日の予告とそれに備える信仰について教えられ、そのあと22章は最後の晩餐の記事に入ります。ですから、ここは私達がこの世を生きて行く上で必要な最後の教えが語られている箇所です。それは、信仰とは何かということです。真の信仰とは何か。この聖書全体を貫く大事なテーマについてここから学んで参りましょう。
◎今日の箇所は、前半部分と後半部分に分けられます。前半ではイエス様が律法学者に気をつけなさいと弟子達に警告を与え、後半では貧しいやもめが全財産を献げた信仰を高く評価し賞賛しておられます。このまったく対照的な信仰の在り方を通して真の信仰とは何かが語られています。まず、前半部分、20:45~47を見て行きます。ここでは弟子達に向かってイエス様が「律法学者に気をつけなさい」と律法学者に対する痛烈な批判をしておられます。「長い衣を好む」とは、律法学者だとすぐにわかる長い衣を着ていると人々が尊敬の目で見てくれるこ
とを喜ぶ姿を語っています。また、「広場で挨拶されること、会堂で上席、宴会では上座にすわることを好む」とは、律法学者として人々に重んぜられることを喜ぶ姿勢を語っています。「やもめの家を食い物にする」とは、夫を亡くした未亡人で財産をもった女性の信仰につけ込み、寄付や援助を求めることを言います。「見せかけの長い祈りをする」とは、自分の信仰深さを見せかけて人々の尊敬を集めようとすること、あるいは、それを手段としてやもめの寄付をもとめることを示しています。そのように律法学者の中には、信仰を人々の尊敬を受ける
手段、寄付を集める手段とする「偽りの信仰者」がいる。そのことを強く批判し、警告しておられるのです。
◎イエス様は最後に「そのような者は一倍、厳しい裁きを受ける」とおしゃっていますが、これは、弟子達に向かった語られていることに注意したいと思います。やがて教会の指導者となっていく弟子達に対する警告と受け止められます。というのは、信仰は純粋なものだけに、誘惑も多いからです。イエス様も荒れ野の誘惑を受けられました。自分の欲望を満たしたい、世の評価を得たい、地位や権力を得たい、と言う誘惑は常に襲って来ます。特に指導者になると高慢になり傲慢になっていきます。イエス様は並行記事のマタイ23章で「仕える者になれ」
「へりくだるって生きよ」と教えておられます。最後の晩餐の席でイエス様が弟子達の足を洗われたように、私達も常に低く低く謙虚に生きること、神と隣人に心から仕えて生きることをイエス様は教えておられるのです。
◎ここまでが前半です。続く後半の21:1~4においては、そのような偽りの信仰に対して、真実な信仰者の姿が示されています。ここにはイエス様が神殿のさい銭箱に金持ち達が献金する中でレプトン銅貨2枚を入れた貧しいやもめのことが語られます。1レプトンとは1日の賃金デナリオンの128分の1ですから、今のお金で50円か100円位でしょうか。それを2枚ですから、100円か200円を献金としてさい銭箱に入れたと言います。それを見たイエス様は「この貧しいやもめは、誰よりもたくさん入れた。あの金持ち達はありあまる中から献金したが、この人は乏しい中から持っている生活費を全部入れたからだ」と話され、その信仰を賞賛されたと言います。
◎なぜ彼女は乏しい中から生活費のすべてを神様に捧げたのでしょうか。また捧げることができたのでしょうか。私が思い出したのは、ルカ福音書7:36以下にある「罪深い女を赦す」という話です。食事をしていたイエス様の所に一人の女がやってきて、イエス様の足を涙で濡らし、髪の毛でぬぐい、香油を塗ってくれた。それを見ていたファリサイ派の人は「この女がどんな女か分かるはずだ、この女は罪深い女だ」と心の中でイエス様を非難した。するとイエス様は「この人が多くの罪を赦されたことは、私に示してくれた愛の大きさで分かる。赦され
ることの少ない者は愛することも少ない」とおっしゃったという話です。ヨハネ福音書8章にも姦淫の場で捕えられた女性がイエス様の言葉によって赦される話があります。そのように、この貧しいやもめには神様に罪を赦された経験、救われた経験、神様の愛と恵みを実感した経験があった。また、神様は何とかしてくださるという神様への信頼があった。だから生活費のすべてを神様にささげたい、すべてを捧げても惜しくはない、そういう思いで生活費のすべてを捧げることができたのではないでしょうか。「生活費」は「人生」「命」とも訳せます。
神様の命がけの救い、愛と恵みを心深く感じたからこそ、彼女は自分の命・人生を捧げることができたのです。
◎すると、なぜ、前半の律法学者が偽りの信仰に陥っていたのかが分かります。彼らは神様の救い・愛と恵みの体験がなかったからか、忘れたのでしょう。だから、人の評価、地位や権力、富を求めたのでしょう。信仰とは、受けた神の救い・愛・恵みに応えて生きることです。いつも注がれている神の愛のまなざしを感じ、その愛に応えて生きて行くことです。私達もまたイエス様が示してくださった神様の愛に応えて生きて参りたいと思います。