◎4月の第2主日、復活節・第3主日を迎えました。満開の桜も散り初め、若葉が萌え出る季節に移ってきました。先週、日本聾話学校入学式に出席しましたが、入学した子ども達が一人一人、自分の抱負を語ってくれまして、感銘を受けました。教会も4月24日に教会総会が持たれます。心新たに新たな歩みを歩み出して参りましょう。
◎今日も、聖書の御言葉から神様のメッセージを聞いて参ります。教会の暦では復活節に入りましたが、この礼拝では、ルカ福音書の続きを取り上げ、受難へと向かわれる主イエスの歩みの中からメッセージを聞いて参ります。前回は、最後の晩餐の記事を取り上げ、聖餐の原点となった主の晩餐の意味を心に留めました。今日は、その席で語られ教えられた主の言葉から主の深き憐れみと主に従う者が歩むべき道を心に刻んで参ります。今日の箇所は、大きく3つの部分に分けられます。その一つ一つの部分から大切なメッセージを聞いて参りたいと思います。
◎まず第一の箇所、22:19~23を見て行きます。ここには、主が肉なるパンと血なるぶどう酒を弟子達分け与えられた後、「私を裏切る者が私と一緒に手を食卓に置いている。人の子を裏切る者は不幸だ」と言われたといいます。主はイスカリオテのユダのことを語られたのです。すると、弟子達の間で誰がそんなことをしようとしているのかと議論が起こります。弟子達の間に犯人探しが始まったのでした。マタイとマルコでは「弟子達は『まさか私では』と代わる代わる言い始めたとあるように自己反省したことが書かれています。いずれにしても弟子達の心の中には主を裏切ろうとする心があったことが分かります。裏切りの種はすべての弟子達にあったのです。
◎しかし、主はそのような弟子達を退けることなくパンとぶどう酒を与えました。主は弟子達をすべて受け入れたのです。裏切りの予告も、裏切るユダに悔い改めを求めた愛の呼びかけでした。主は最後まで弟子達を愛し抜かれたのでした。聖餐は主の愛を伝えるものだったのです。しかし、ユダは結局、裏切ります。では、ユダはどうなるのでしょうか。古来、ユダは、裏切り者、サタンの手先などと言われてきました。しかし、十字架によって救い得ない罪はありません。主はユダのためにも十字架にお架かりになったのです。ユダは最後に自殺します。しかし、使徒信条に「主は陰府に下り」とあるように、主は死者に対しても福音を宣べ伝え、救いをもたらしました。どんな極悪人でも主は愛し、救いの手を差し伸べ救い出して下さる。そのことをこの記事は教えています。
◎第二の箇所、22:24~27を見て行きます。ここには「自分達のうちで誰が一番偉いだろうか」と使徒達の中で議論が起こったとあります。主の死・十字架を前にして何ということでしょうか。しかし、ルカ9:46でも同じ議論があり、マタイ20章・マルコ10章でも、二人の弟子が「主が栄光を受けられる時、私を右に、他方を左においてください」と主にお願いし、そのことを知った他の弟子達が起こったという記事が書かれています。つまり、弟子達の間では常にこの議論があったことが伺えます。「『誰が一番偉いか』で議論が起こった」というのは、人間の姿をよく表しています。人は人と人とを比べ人を評価します。そして、評価の高い人を尊敬し、低い人を軽蔑する。自分でも少しでも高い評価を得たいと努力します。高い評価を得れば優越感を、低い評価だと劣等感を抱きます。他人の評価に一喜一憂し、人をランク付けしているのが人間です。その競争は現代では激しくなっています。そこから差別やいじめが生まれ、真の尊敬・友情・愛情・親睦・平和が持ちにくくなっています。
◎そのような私達に対して主は「異邦人の間では王が民を支配し、民の上の権力を振るう者が守護神と呼ばれている。しかし、あなたがたはそれではいけない。あなたがたの中で一番偉い人は一番若い者のようになり、上に立つ者は仕える者になりなさい」と教えます。この世の教えとはまったく反対のことを主は教えるのです。主は、「支配する」のではなく「仕える」ことを神の国の教えとして教えるのです。「仕える」とは相手の下に立つこと、ひざまづくことです。ヨハネ福音書13章では、自ら弟子達の足を洗い、互いの足を洗うようにと教えました。ルカでも「私はあなた方の中で給仕する者である」と言われ、給仕する者・仕える者になるようにと主自ら模範を示されたのでした。「仕える」とは「与えること」「愛すること」であり、その究極は「自分の命を献げること」です。仕えるとは、相手を敬い、愛を注ぐことです。仕え合うことで愛と平和の世界が造られていくのです。
◎しかし、どうしたら人に仕えることができるでしょうか。人に仕えるためには、その人自身が愛され、愛に満たされていることが必要です。愛に満たされた時に人は自分に真の自信を得、充足感を感じます。愛の充足は神の愛によります。主イエスの赦しにより、父なる神の愛を受け、その愛に満たされた時に初めて人に仕えることができます。つまり、信仰によって初めて私達は仕える者に変えられるのです。信仰が仕える人に変えるのです。
◎第三の箇所22:28~30では「あなたがたは私が種々の試練に遭った時、絶えず私と一緒に踏みとどまってくれた」と主は弟子達に感謝を述べ、神の支配権を譲ることを約束されます。教会の指導者となることを約束されたのです。しかし、その支配は「仕える」ことによる支配です。主は私達に仕える生き方を求めておられるのです。