説教『祈りと憐れみによる主の癒し』(マルコ1:35~45)

2017年3月5日           主日礼拝・説教要約
説教『祈りと憐れみによる主の癒し』(マルコ1:35~45)

◎3月最初の主の日を迎えました。寒い日が続いていましたから3月の声を聞くとほっといたします。教会の暦では3月1日から4月15日までレント・受難節となります。主の日を除くと40日間。これは主が誘惑を受けられた荒野の40日から来ています。この間、私達は主の十字架を思い、悔い改めつつ日々を過ごして参りましょう。

◎今日も聖書の御言葉を通して主のメッセージに耳を傾け、神様の新たな命を受けて参りたいと思います。今日、取り上げる聖書は、マルコ1:35~45です。ここは大きく2つの場面が書かれています。主が朝早く祈られる場面を描いた前半と癒しの場面を描いた後半に分けてお話します。まず、前半の1:35~39を見ていきましょう。

◎冒頭の1:35には「朝早くまだ暗いうちにイエスは起きて人里離れた所へ行き、祈っておられた」とあります。ここには主が朝早く暗い内に起きて神に祈ることで一日を始めておられた主の生活が良く描かれています。「人里離れた所で」とは、主が父なる神に1対1で向き合い相対しておられたことを表しています。この朝早く祈る主の姿から祈りの意味が教えらます。祈りの第1の意味は、「心身の疲れ、霊の衰えを癒す、回復する」という意味です。主は悪霊と闘い、追放して人を癒されました。激しい悪霊との闘いに疲れた主を癒したのが祈りです。
私達も弱くなった時、不安や恐れを感じた時、祈ることで元気を取り戻すことができます。祈りの第二の意味は、「その日一日に必要な霊の糧・命の糧を受ける」ことです。肉体を養うために食糧が必要であるように、霊を養ために霊の糧が必要です。その霊の糧を与えてくれるのが祈りなのです。特に朝の祈りは大事です。毎朝、聖書の御言葉をいただき、祈りをもって一日を始める。祈りを以て始まり祈りを以て終わる。これが私達の生活です。

◎祈りの第3の意味は、祈ることによって「神の御心、神が求めておられること、自分の使命を知る」ことです。
「人里離れた所」とは「荒野」とも訳せます。主は荒野でサタンの誘惑に遭いながら神の御心とご自分の使命を確認されたように、私達もまた祈ることによって主の御心を知り、自分の使命を知らされるのです。祈りの第4の意味は、「執り成すこと」です。祈りは、自分のことだけなく、神のため・隣人のため・世界のためにも祈ります。主は弟子達・家族・地域の方々・癒した一人一人・ユダヤ人のこと・この世のすべての人のことを覚えて祈っておられたと思います。主に従う私達もまた、他者のため・この世のために「執り成して」祈るのです。

◎続く1:36以下では弟子達がイエス様を探します。主を見つけた彼らが「みんなが捜しています」というと、主は「近くの町や村へ行こう。そこでも私は宣教する。そのために私は出てきたのだから」と言ってガリラヤ地方の町や村に生き、宣教し、悪霊を追い出されたといいます。ここには、「ここに留まってほしい」という人々の要求や願望にではなく、父なる神の御心・み旨を第一として歩まれた主の生き方が示されています。神の御心とはこの世の一人でも多くの人に神の国の到来の福音を宣べ伝えることでした。主はそれを第一されたのです。そのように、今日の前半の記事は、主の祈る姿、各地で宣教された主の姿があります。心に留めておきましょう。

◎今日の後半、1:40~45を見ていきます。ここには「重い皮膚病に罹った人の癒し」の話が書かれています。冒頭の1:40にはこうあります。「さて、重い皮膚病を患っている人がイエスのところに来てひざまずいて願い、『御心ならば、私を清くすることがおできになります』と言った」。「重い皮膚病を患っている人」は、以前は 「らい病人」と訳されていましたが、ここで使われているヘブライ語「ツアーラート」は「ハンセン病」以外の重い皮膚病を患った人を指すことが分かっています。「重い皮膚病の人」は律法の規定では「汚れた者」「不浄の人」とされ、人々の間に住むことも人と接触することも禁じられていました。町や村、集落から隔離され、排除され、孤独と悲惨の内に暮らしていたのです。彼・彼女らは肉体の痛み・かゆみ・醜さに加え、社会的に差別・隔離・排除された痛み・苦しみ・悲しみの中にいました。ここに登場する人もそれらの苦しみを抱えていました。

◎この重い皮膚病の人は、主を前にして人と接触してはならないという律法の規定を破って主の前にひざまずきます。病を治してほしいという必死の思い、決死の思いからです。しかし、彼は謙虚でした。「御心ならば」と、彼は言います。あくまでも主のご意思を尊重します。しかし他方、「おできになります」と主を深く信頼しています。「御心ならば…」という言葉の中に主に対する彼の深い信仰を見ることができます。そのような彼に対して主は「深く憐れんで、手を差し伸べてその人に触れ『よろしい、清くなれ』と言われた。すると重い皮膚病は去り、その人は清くなった」のでした。ここで癒しの奇跡が起こった要因は3つあります。一つは「主の深き憐れみ」です。「憐れむ」は内臓を意味する言葉を語源としています。内臓が痛むほどかわいそうに思う心を言います。二つ目は「手を差し伸べて触れられたこと」です。これまで誰も触れなかった彼に主は触れたのです。この時、主は彼の病を担われたのです。触れたことで彼は主の愛を感じたはずです。三つ目は「よろしい、清くなれ」にみられる主のご意志・ご決断・御言葉です。主の愛の決断が彼を清め、主お皮膚病から解放したのです。