説教『悪霊を追い出す真の権威と力』(マルコ1:21~34)

2017年2月26日           主日礼拝・説教要約
説教『悪霊を追い出す真の権威と力』(マルコ1:21~34)

◎2月最後の主日を迎えました。今週から3月に入ります。教会歴では3月1日から4月16日の復活祭の前日まで受難節・レントに入ります。この間、主の十字架への道を思いながら、祈りをもって過ごして参りましょう。そういう受難節に入る最後の主日、聖書の御言葉を通して、主イエスの新たな命を受けて参りたいと思います。

◎先週は、マルコ福音書1:14~20を取り上げました。「時は満ちた。神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」と言って、主が福音伝道を開始された場面、そして、主が4人の漁師を弟子として招き、4人が従った場面を見てきました。今日の箇所は、それに続いて会堂において主が汚れた霊を追い出された話、また、シモンの姑の病を癒された話を取り上げます。この2つの話を通してイエス様がどのような方であったかを見て参ります。

◎まず、最初の出来事、1:21~28の汚れた霊を追い出された出来事を見ていきます。ここには「驚いた」という言葉が2回使われています。この2つの驚きを通してイエス様がどのような方であったかがよく示されています。最初の驚きは、1:22の「驚いた」です。これはイエス様達がカファルナウムに着き、主が安息日に会堂で教え始められた。すると、人々はその教えに「非常に驚いた」のでした。カファルナウムはガリラヤ湖の西北にある漁港で、4人の漁師を弟子に招かれた場所から遠くない所にあり、シモン・ペトロの家にある町です。安息日はユダヤ人にとっては聖なる日であり、十戒においても守るべき日です。当時、ユダヤ人は安息日に会堂・シナゴーグに行って礼拝を捧げていました。シナゴーグは集会を意味します。それはバビロン捕囚期にバビロンに生まれ、捕囚からの帰還後にユダヤ人が各地に作り、礼拝や教育、地域集会などを開く公民館のようなものでした。安息日の礼拝では律法学者が聖書を朗読し、聖書を解き明かし、説教がなされていたようですが、その日、主が教えられたところ、律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったことに人々は驚いたのです。

◎それはどういうことでしょうか。それは、神の国を遠いこと・先のこととしてではなく、今ここに来た・ここにある、と教えられたということ、他人事としてではなく、当事者として、ご自分が神の支配をここに打ち立てるために来たことを告げられたことを伝えています。その主の持つ権威の前に人々は腰を抜かすほど驚いたのです。

◎もう一つ、驚いた出来事が起こります。それに続いて、主に対して会堂にいた汚れた霊にとりつかれた男が突然、叫びます。「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ」と。これは男の叫びというより汚れた霊の叫びでした。汚れた霊・悪霊は神に逆らう霊です。しかし、神の前には弱い存在で、神に向かって正面から逆らえない。神の前からは退散するしかありません。だから、神の子イエスの存在に耐えられない。それで悪霊は先手を打って、先にイエスの名を呼び、その正体を明らかにすることによって優位に立とうとします。それに対して主は「黙れ、この人から出ていけ」と悪霊に向かって命じると、悪霊はその人に痙攣をおこさせて大声を上げて出ていきます。その男は悪霊から解放されます。それを見ていた人々は、「これは一体どういうことだ。権威ある新しい教えだ」と恐れおののいて驚きます。これは天地創造の記事、「神が『光あれ』と言われた。すると光があった」を思い起こさせます。ここに見られる神の言葉と同じ権威を人々は主の言葉の中に感じ、悪霊を追い出すほどの主の権威と力の大きさに人々は恐れ驚いたのでした。

◎この出来事は私達に大きな勇気と励ましを与えてくれます。今日、この世界には神に背く悪霊が満ち溢れ、毎日、悲惨な出来事は起こっているからです。その悪霊は私達にも襲いかかり、不安と恐れをもたらし、苦悩と混乱を与えています。しかし、ここに悪霊を追い出し、勝利される主が真の権威と力をもってこの世に来てくださった。そして、日々私達とこの世界を混乱させている悪霊に必ず勝利してくださる。そのことを教えているのです。ルターは洗礼式の式文にこう書いています「私は、あなた、汚れた霊が、このイエスキリストの僕から出ていき、遠ざかることを、父と子と聖霊のみ名によって命じる、アーメン」と。主は悪霊を追い出してくださったのです。

 

◎続いて後半の1:29~34を見ていきましょう。イエス様達は会堂を出るとシモンとアンデレの家に行ったといいます。なぜ、家を捨てたシモンの家に行ったのでしょうか。それはシモンに家族と別れる最後の時を持たせるための主の深い配慮からではないかと思えます。その後、家に入るとシモンの姑が熱を出して寝込んでいました。それで主は姑の手を取り、体を起こされた。すると、熱は去っていき、姑の病は癒されたのでした。これは小さな癒しでしたが、ここには主が手を取って病を癒されたこと、つまり、主が罪の力を失わせて病を癒されたことが示されています。この病の癒しを通して主は病の原因であった罪を赦し、和解をもたらす方であることが示されたのです。この後、病が癒えた姑は一同をもてなしたといいます。主の恵みに応える姿を見ることができます。これは、姑とシモンの妻が主のことを知り、この後、二人が主を信じる者とされる契機となりました。「すべては相働きて益となる」、「主イエスを信じなさい、そうすれば家族をも救われます」の真実を教えられます。