説教『我ら罪人を招く主イエス』(マルコ2:13~17)

2017年4月2日            主日礼拝・説教要約

説教『我ら罪人を招く主イエス』(マルコ2:13~17)

◎今日は、今年度最初の主日礼拝であり、また、受難節第5主日でもあります。受難節も終盤を迎え、来週は受難週となります。今週も主の御受難を心に深く覚え、悔い改め、祈りつつ主を見上げながら歩んで参りましょう。

 

◎今日も、聖書の御言葉によって命と力を受けて参ります。今日取り上げる聖書の箇所は、マルコ2:13~17です。ここは大きく前半と後半2つに分けられます。2つの話を通して語られているメッセージに耳を傾けて参ります。

 

◎まず前半の話です。2:13によると主は再びガリラヤ湖のほとりに出ていかれたと言います。すると、主の姿を見かけた群衆は主を取り囲みます。それで主は群衆に神について、また神の国について教えておられたのでした。

 

◎そのような時、主は湖に行く途中、通りがかりに徴税所の前に徴税人レビが座っているのを見かけたと言います。この町カファルナウムは、交通の要所でもありましたから、徴税所が置かれ、そこを通る物品に関税を懸けて税を徴収していました。当時、ユダヤはローマ帝国に支配されていました。ローマ帝国はユダヤ人から税を徴収していましたが、徴収するのはそれを請け負ったユダヤ人です。徴取税人は異邦人であるローマ人の手先となって働き、また、税以外に金を徴収し、自分の懐を肥やしていましたから、同胞のユダヤ人からは罪人として嫌われ軽蔑されていました。徴税人レビ(マタイ福音書9章ではマタイ)も徴税人の一人でした。彼は徴税所の下役としてそこに座り、通る人達を見ていたのでしょう。そういうレビをイエス様は見かけ、声を掛けられたのでした。

 

◎主はレビに「私に従いなさい」と声を掛けます。すると、レビは主に従って行ったといいます。実に簡略です。「なぜ、主はレビに声を掛けたのか」、「なぜ、レビは主に従ったのか」は書かれていません。多くの注解書には「これは主に従う信仰者・弟子の基本的な姿が書かれている」とします。これは主に従った4人の漁師の話を思い出します。ただ、この時のレビの心境について書かれた説教が一つありました。それは渡辺信夫牧師の説教です。そこにはエリコの取税人ザアカイと比べながら、レビの心には重い問題意識がありながらも、立ち上がることのできない虚無感・空虚感・孤独・冷えた心があったことが書かれています。それは現代人の心に似ています。孤独で虚無的で希望が持てない心をレビは抱えていたのでしょう。レビの姿は私達現代人の姿でもあります。

 

◎そういうレビの姿を主は通る度に見ておられました。そして、この時、レビをじっと見つめて「私に従いなさい」と呼びかけたのです。主はレビの心を知っておられて、レビに何が必要かをご存知でした。だからこそ主はレビに呼びかけたのです。すると、レビは心の内に喜びが湧いてくるのを感じました。レビは主から声を掛けられるのを心密かに待っていたのです。主はレビにとって最も適切な時に「私に従いない」と声を掛け招かれたのです。

 

◎そのように見ていくと、2:13~14から主に従うとはどういうことかが分かります。私が教えられたことは3つです。第一は、主は私たちを見ておられて最も相応しい時に「私に従いなさい」と声を掛け、一人一人を招いてくださるということです。第二は、そのような主の呼びかけ・招きに応えて、私達は主に従うことができるということです。主は主に従うという生き方の方向転換においても従う思いと力を与えてくださるのです。第三は、主に従うということは、主が歩まれた道、十字架の道を歩むということです。その道は時に辛く苦しいのですが、主がそうであったように、十字架の道を通って神の救いと平安へ至り、真の希望を得ることができるのです。

 

◎では、後半2:15~17に入ります。ここはレビの家での食事の席でのことが書かれています。恐らくレビは主に従うことを決意し、自分で送別会を催したものと思います。そこには主や弟子達のほかに、徴税人や罪人も招かれ、一緒に食事をしていました。罪人というのは律法を知らない人・守らない人達を指します。徴税人や犯罪を犯した人、売春婦、物乞い、羊飼いなど下級労働者を含みました。そのような人々は世において見下され蔑まれていましたが、主はそのような人達を招き、また、彼・彼女達も主に従い、共に生活し食事をしていたのでした。

 

◎その光景を見て驚いたのがファリサイ派、特にその律法学者達でした。ファリサイ派とは律法を厳格に守った人達です。律法学者とは律法をよく学び、教えていた人達です。律法では食事は神聖なものでした。ですから、罪人らと共にすることはできませんでした。罪人らと食事を共にする主に疑問を抱き、そのことを弟子に話します。

 

◎すると、それを聞いた主はこう言います。「医者を必要とするのは丈夫な人ではなく病人である。私が来たのは正しい人を招くためではなく罪人を招くためである」と。主がこの世に来られたのは罪人を招くためであることを明確に語ります。それは神の御心に適ったことでした。聖書の神とは愛と憐れみの神だからです。マタイ9:9に引用されているホセア書6:6は神が喜ばれるのは宗教的な儀式ではなく愛であることを伝えています。神は愛である。だから愛を必要としている罪人を招くために主は来られたのです。しかし、神の愛を必要としているのはファリサイ派・律法学者も同じでした。彼らは愛がないから罪人を裁いたのでしょう。ローマの手紙にもあるように「正しい人は一人もいない」。世のすべての人は罪人です。主はすべての罪人を招いておられるのです。