説教『仲間の愛と信仰による病の癒し』(マルコ2:1~12)

2017年3月26日           主日礼拝・説教要約

    説教『仲間の愛と信仰による病の癒し(マルコ2:1~12)

◎受難節第4主日を迎えました。イースターまで3週間余りとなりましたが、主の御受難を心に深く覚えながら過ごして参りましょう。今日はまた今年度最後の主日です。今年度は創立40周年を迎えて創立の精神を改めて心に刻んだ1年でした。教会が目指してきたものを心に深く覚えつつ新しい年度に向けて歩んで参りましょう。

◎今日も聖書の御言葉を通して主の命を受けて参ります。今日取り上げるのは、マルコ2:1~12です。ガリラヤの町や村で教えておられたイエス様が再びカファルナウムに戻ってこられて中風で苦しむ人の病を癒した話です。今日は、大きく前半と後半に分けて、それぞれに込められた大切な二つのメッセージに耳を傾けて参ります。

◎まず前半の2:1~5を見ていきます。冒頭の2:1~2によると、主は再びカファルナウムに戻ってこられたと言います。恐らくシモン・ペトロとアンデレの家かと思いますが、その家を拠点に伝道活動をしておられたようです。すると、主が来られたことを聞いて、大勢の人が押し寄せてきました。戸口の辺りまでびっしりと身動きできなほど大勢の人達が主の教えに耳を傾けていました。そこへ4人の男が中風に人を寝床に寝かせたまま運んで来ました。中風と言いますから、脳梗塞か脳出血かで手足が不自由になり、体も動かせず、寝たきりのままの生活を送っていたのでしょう。当時、病気は本人か両親が罪を犯したために罹ると見られていましたから、彼は身体が不自由になり、生活も苦しい上に、罪人とみなされ、辛く苦しい日々を過ごしていました。しかし、彼のことを心配し、心にかけ、身の周りの世話をしてくれる仲間がいました。彼を運んで来たのは4人の仲間たちでした。

◎4人の男はイエス様のことを耳にしてイエス様なら中風の人の病も癒されると思い、中風の人を床に乗せたまま運んで来た。ところが、大勢の人に阻まれてイエス様に近づけない。それで、彼らは中風の人を屋根の上に上げ、屋根に穴をあけてそこから病人をつり下ろしました。何と大胆の行為でしょうか。彼らはその時を逃すと病人は助からないと思ったのでしょう。彼らは病人を助けようと必死で病人をイエス様の前に近づけようとしたのです。その時、屋根の下にいた主は驚かれたことでしょう。目の前に病人がつり下ろされたのですから。しかし、主はことの次第が分かるとその人達の信仰を見て、中風の人に「子よ、あなたの罪は赦される」と病人に対して罪の赦しを宣言されたのでした。主は病人の仲間・4人の信仰に心動かされて病人の病を癒そうとされたのでした。

◎しかし、4人の信仰とはどういう信仰なのでしょうか。この「信仰」には2つの要素がありと言えます。一つは、中風の人に対する4人の憐れみの心、愛の心です。主は福音書の中で律法の中で最も大事なものとして「全身全霊で神を愛すること」と「自分を愛するように隣人を愛すること」、つまり、神への愛と隣人愛を教えました。それはルカ10章の「良きサマリア人のたとえ話」やマタイ25章の「終わりの日の裁きの話」でも教えておられます。そのように隣人愛を教えられた主からすれば、中風の人への4人の愛は主の心を打つものであったのです。信仰のもう一つの要素は、主は病人を必ず助けてくださるという主イエスに対する深い信頼、まったき信頼です。4人には主は必ず助けて下さるという強い確信、絶対的な信頼がありました。そのまったき信頼が信仰なのです。

◎そのように4人の信仰とは、中風の人に対する憐れみの心・愛の心と主イエスへのまったき信頼・純粋なより頼みであったのです。そして、主は4人の信仰を見逃すことなく、その信仰に心を動かされたということも忘れてはなりません。今日の前半の記事から教えられることは4人の信仰です。隣人愛と主への信頼こそ信仰なのです。

◎次に後半の記事2:6~12を見ていきましょう。ここに登場するのは律法学者です。律法の深く学び、民衆に教えた人たちです。彼らはイエスという人物の評判を聞き、主を探りにきたのでしょう。彼らは、この時、発せられた主の言葉「あなたの罪は赦される」を聞き、心の中で「この人はなぜ、こんなことを口にするのか。神を冒涜している。神お一人以外に一体、誰が罪をゆるすことができるだろうか」と反感を抱きます。聖書に基づいて考えるなら彼らの批判は正しい批判でした。なぜなら、私達人間の罪をお赦しになれる方は神以外にないからです。私達人間の犯す罪は最終的に神に対する罪であり、その罪を赦せるのは神様以外にないのです。ですから、彼らが主を批判する言葉は間違っていません。ただ、彼らが見落としていたものがありました。それはイエスと言う方が罪を赦す権威を神様から与えられた方であり、主は地上で罪を赦すことのできる方であったということです。

 

◎そのことを明らかにするために主はこう言われます。「なぜ、そんな考えを心に抱くのか。『あなたの罪が赦される』というのと、『起きて、床を担いで歩け』というのと、どちらが易しいか。人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう」と言って、「起きて起き上がり、床を担いで家に帰りなさい」というと、中風の人は起き上がり、皆の見ている前を出て行ったと言います。主は、「起きて、歩け」と命じて歩き出したことによってご自分が罪を赦す権威を持っていることを示されたのです。この出来事を通して主は御自分が罪を赦す権威を持っていることを示されたのです。これは十字架の先駆けと言えます。主は罪を赦す神の子なのです。