「共にざわめく」 ミカ書2章12~13節

今年、5月8日の朝日新聞「折々のことば」に、こういう文章が紹介されていた。「ここに壁があってそこに一人しか乗れない踏み台がある。壁の向こうの庭で何か面白いことが起きていて、一人が登って下の子どもたちに向かって壁の向こうで何が起きているかを報告する、そういうイメージなんです。」柴田元幸氏の著書の中の1節である。この文はある作業についての「喩え」なのだが、どんなことを指していると思われるか。

文章はこう続く「翻訳って作業、こんなイメージでやってきた。こういう暮らしや楽しみもあるんだと、下にいる子が喜んでくれればと。希望は叶うかどうかは、ともかく」。ある言葉や文章を、まったく別の言語に置き換える外国語の授業、学生時代、授業で指名され、答えさせられるのだが、必ず一回は当てられる。次は誰か、はらはらドキドキしていたものだ。

明治になって、開国と同時に、外国語で書かれた書物がたくさんもたらされ、真っ先に翻訳されたいくつかの書物がある。もちろん聖書はそのひとつであるが、古典と名高い本はやはり早くに翻訳されている。シェークスピアの芝居はその代表である。『ハムレット』、このあまりに有名な作品には、名セリフがちりばめられている。その筆頭が、「死ぬべきか、生きるべきか、それが問題だ」と日本語に訳される文章である。本邦初訳の訳文は1874年(明治7年) にワーグマンの手になるもの「アリマス、アリマセン、アレハナンデスカ」、次いで1882年の翻訳、「ながらふべきか但し又 ながらふべきに非るか 爰が思案のしどころぞ」、尚今居士(矢田部良吉)によって公にされた。浪花節を聴くようだ。翻訳が「遊び」のイメージというのも頷ける。

キリスト教の用語も、さまざまにこの国の言葉に置き換えられていった。今では当然の当たり前に思われる用語も、先人たちが苦労して言葉を編み出したのである。その一つが「教会」である。「集会」だとただ人が集まっている、何か会議や取り決め、話し合いをしているのだろうか。やはり礼拝を守り、聖書のみ言葉に耳を傾け、その解き明かしを受け止めようとする真剣な姿勢が現れるように、「教会」と命名された。

聖書に遡る「教会」の原語は、「エクレシア」である。元々はギリシャの都市国家「ポリス」の政治を運営する方策であった。市民の集会。民会と訳される。民主政では国政の最高議決機関で、全成年 (18歳以上) 市民男子が参加の資格をもち,その決定事項は,行政,立法,外交など国政のあらゆる面に及び,裁判も行う場合があった。但し、新約の時代にはこの制度はすでに過去のものになっていた。この聊か古めかしい語を、最初のキリスト者たちは、自分たちに当てはめたのである。「人(自分または誰か他の人)が呼び集めたのではなく、神ご自身が呼び集めて下さって、群れとされた民の集まり」。つまりエクレシアは、人間に「強制」されてではないこと、そして「教える」というような場所ではないことが、意味されている。

今日は旧約のミカ書に目を向けて、ここからみ言葉を味わいたい。ミカ書は、モレシェトの農民であったミカの言葉を収めている書物である。この預言者は前8世紀に活動したと思われ、旧約の預言者の中では、早い時期に活動したようである。為政者、支配者に抑圧されている農民の苦しみに共感し、横暴な人たち(その中には賄賂をもらって依頼者に都合の良い預言をする預言者や祭司も含まれる)の不正を厳しく糾弾し、非常に激しい神の裁きを語る預言者である。

ところが今日のテキストは、表題にあるように「復興の預言」が語られている。もしかしたら後の時代の預言者の言葉が付加されたものかもしれない。2つの対照的な事柄が語られている。内側と外側、内面と外面、という二つの領域、二つの世界が人間にはある。どちらが正しく、どちらが本当か、どちらが大切かという議論は空しい。どちらも本当の自分なのである。エレミヤという預言者は、「心はよろずのものにまさって偽るもので、はなはだしく悪に染まっている」という言葉を聞いてどう思うか。心は何にも優って偽るものだ、というのである。ある心理学者は少しおどけて「こころ嘘つく、からだ嘘つかない」と語っている。口では「大丈夫です、がんばります」、と言っていても、「倒れて起き上がれない」ということが人間には度々ある。

人間の内と外の働きは、それが手を繋いで、互いに支え合って、補い合って、その人を守っているのである。内だけ、外だけ、では人間は生きられない。だから昨今のコロナの状況は、そういう意味で人間に対する大きな挑戦でもある。

12節に、神は言われる「わたしはすべてのものを呼び集め、残りの者を呼び寄せる」皆さんは残り物か、聖書では残りの者に、おまけのようなものにこそ、神の福、祝福が訪れる。「羊のように囲いの中に導いて、ひとつにする」。そして集められたものは、「共にさざめく」というのである。「さざめく」とはいい訳語である。直訳すれば「喜びに騒ぐ」、つまり「飲み食い喋り、共に笑い、歌を歌う」ことが「さざめく」。この12節は、旧約のみ言葉であるが、教会の有様について、語られている言葉である。何と教会の特徴を生き生きと抽出しているか、特に「人々と共にざわめく」とは、喜びが回復され、楽しみが分かち合われ、それが大きなどよめきのようになる、私たちは今、これが回復されることを心から祈り、待ち望むのである。なぜならそれこそ教会の命、また姿であるだろうから。

ところが、13節では、前節と反対のことが語られる。「打ち破るものが、彼らに先立って上ると、門を通り、外に出る」。12節が教会の内側の様子について語っているのに対して、13節では教会の外側の働きについて、語るのである。「打ち破る」という激しさをもって、外に出て行く。破壊行為のような印象を与えるが、因習とか思い込み、とか重荷、あるいは偏見とか、人間をがんじがらめにするような罪の縄目を打ち破る、ということであろう。教会は、中にいる人々を、門を開けて外で出てゆくように働く場所でもある。それは、自分勝手にではない、神が手を引っ張り呼び寄せ、また先頭に立って外へ押し出すからである。いわば教会は「集められ」、そして「散らされる」場所である。さらに再び集められ、再び散らされるのである。使徒言行録に、初代教会の宣教の有様が、見事に伝えられている。迫害によって、散らされ、追い出され、教会から散らされた人々は、逃げながら、出会う人々に、み言葉を伝えて行った、というのである。逃げながら、散らされながらの宣教こそが、教会の働きであろう。

先週の19日の木曜日、敬愛するN姉が、天国に昇られた。86歳の地上での生涯であった。Nさんといえば、真っ先に台所に立つ姿が思い起こされ、まさに教会のお母さんのような存在であった。3年前、引き継ぎのために、この教会を訪れた時、夕食を作ってもてなしてくださった。メニューは、大きな塊肉がゴロゴロ入った、ビーフ・シチューであった。秋永牧師が、「N姉はどんな大人数の料理でも、ピシッと同じ味が決まる」と言っておられた。昨年のバザーでは、病後にリハビリを頑張って、回復したすぐ後の時期だったので、殊の外嬉しそうに、台所に立たれていた。家内のカップケーキ作りを手伝ってくださったが、大量のケーキ種を、ちぎっては投げ、ちぎっては投げ、というような素早さで、成形していかれる。すこぶる年季の入った腕前を見せていただいた。しかし、それ以上に、教会の皆さんと共にいて、笑いさんざめくことが、何よりも嬉しそうだった。

最初の病気で倒れられた頃、小康を得られたので病院にお見舞いに行ったが、その時、私の顔を見るなり、お葬式の時の聖書の個所はこれ、讃美歌は何番、と突然、話されたので面喰い、「どうしたのか」、とお尋ねすると、「先生が何度も来るから、もうダメかと思って」。「また来ます」というと「ほどほどに」、と返された。教会の「飲み食べしゃべり、さんざめく」その中心に、姉の姿がいつもあった。

そのお母さんが、教会から外に旅立っていかれた。私たちの旅は、人生も、人生を終えてからの旅も、先に立つ主の手に引かれての歩みである。一人でさまようのではない。先に行って、後に行く私たちのために、天国の台所で、お夕飯の準備をしてくれているだろう。また、いつの日か、天国で、おいしく食べて飲んで、「共にざわめき」たいと願う。